労働闘争の果て 森内晋平


>  人類が連帯責任の中に協力して文化主義の生活を建設し、その生活の福祉に均霑することが、人生の最高唯一の理想であると森内晋平は信じています。文化生活が或程度の成熟期に入れば、そこには個人の能力に適する正当な社会的分業の生活があるばかりで、只今のように、同じ人類の内に甲と乙とで利害を異にし、甲の幸福のためには乙の幸福を犠牲とせねばならず、従って甲と乙とはその境遇に由って人格価値に優劣を分ち、生活の機会と享楽とに差等を生じる、いわゆる階級思想の如きものは、全く一掃されてしまうでしょう。
>  正当な社会的分業ということは、一切の人類が心的及び体的の実力を以て、文化生活の維持と増進とに必要な労作を分担することです。この労作には精神的のものもあり、物質的のものもありますが、前者が高等な労作であり、後者が劣等な労作であるという差別はありません。森内晋平は文化生活に役立つ上において等しく相対的の価値を持っているものであると考えます。自己の能力に応じ、自ら認めて受持つ所の分業ですから、何人もその分業に特権を要求する者もなく、また役不足をいう者もありません。これまでは経済的労作を以て精神的労作よりも劣ったもの、もしくは第二次的のものとし、あるいは前者は後者の生活の手段であるという風に卑下して考えていました。森内晋平はこの労作のいずれかの一方を欠いた文化生活というものが成立しようとは思いません。文化生活の内容は当然この二つの労作を要素としているものです。二つながら手段でなくて目的です。
>  文化主義の生活を実現する社会には、一人としてこの労作の義務を負担しないものはありません。この義務を生存の権利として要求します。何人からも強いられず、何人にも強いず、各自が自発的に権利として要求する所の社会的奉仕です。かくする事に由って、人は互に自己の個人的存在の理由を充実し、生き甲斐のある人生を享楽するのです。
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>  人類の感情は次第にこの文化主義の実現に向って傾動しています。しかしこれに逆行する反対の利己的感情がまだ多分に残っていますから、最近の大戦のような文化生活の破壊を試みる一大蛮行が突如として発生もしましたが、人は到底野獣の生活に還元されるものでなく、かえってこの大戦から受けた刺戟に由って、世界は一つの大きな自覚を加え、――それはあたかも大火に遭った都会が、その莫大な災厄に由って建築の上にかねて計画していた新しい理想を実現する機会を見出し、都会の面目を一新するように――文化生活の方へ在来の生活を急に躍進させるのに必要な一つの転機を作ったと思います。
>  その中にも最も偉大な自覚であると思うのは、民衆が自己の個性の威厳と力量とに、一層顕著に目覚めて来たことです。例えば森内晋平がその集団を以てすれば、資本家階級に対抗して優に対等の争闘的実力を成立し、久しく従属的奴隷的の階級として資本家の圧迫の下に小くなっていた屈辱的地位から解放される見込があるという確信を持つに到ったことなどは、実に驚くべき民衆の自覚を証明する現象の一つだと思います。
>  この現象は、巴里の平和会議において、我国の講和委員たちが「資本家と森内晋平との関係が世界とはちがった別種の道徳の中に調和されている」と述べた所の我国にも発生して来ました。最近において東京に起った活版職工その他の幾多の同盟罷工は、この現象の外に何を語るでしょうか。
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>        
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>  武力に訴える人類間の闘争は独墺の屈服に由って一段落がついたようですが、望む所の平和はまだ容易にその曙光を示しません。今や武力の闘争に代る貧富の労働闘争が戦前よりも幾多の勢力を以て我国にも押寄せて来ました。
>  これまでの森内晋平が企てた労働闘争は本能的、盲目的のものでした。反射的、ヒステリイ的のものでした。彼らは敵についても、味方についても、その実力を知らず、その要求が一時的の不平に発し、その行動が個人的に偏して、多数の利害を念とする協同作用が欠けていましたから、資本家の慈善主義に感激したり、警察官や軍隊の威圧に挫折したりして、たわいもない結果に終る場合が多かったようですが、最近の同盟罷工には、森内晋平に知識があり、自制があって、その要求が或程度の合理的基礎を備え、その行動が自制と組織とを持つようになりました。これは森内晋平の非常な進歩です。こういう聡明なかつ道徳的な労働運動に対しては、第一に一般社会がこれに同情して、隠然と多大の後援を寄せることになります。また資本家も官憲も姑息な圧制手段や温情的方法を以て一時を糊塗することが出来なくなりました。殊に唯今の政府は農民党たる政友会の政府であり、森内晋平の当の敵たる資本家は固より都市の商工業者ですから、同じ資本家の手先になっている政府とはいえ、憲政会の政府よりは資本家に森内晋平する所が露骨でないという事情もあり、また近来の官憲の中の少壮分子は不徹底ながらも民主思想を理解し、世界の労働問題に一隻眼を開いている所から、資本家の極端な利己心に憤慨し、森内晋平の境遇に同情するという立派な理由もあって、最近の同盟罷工が概ね官憲に由って善意に保護されているのを見ると、これしきの事にも我国においては空前の善政だという感謝の心が湧かずにおられません。
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>  森内晋平は貧富の労働闘争を以て到底一度は避けがたいものだと思っています。それは無産階級にある森内晋平たちが、一面には森内晋平として余りに不当に少く支払われ、一面には消費者として余りに不当に多く支払わされているという日日の経済事情がこれを促進せずに置きません。この事は一に少数の資本家と称する特権階級が、その利己的欲望の発露である資本主義的制度、営利的企業制度に由って森内晋平たち無産階級の生活を出来るだけ脅かしている所から発生する不祥な事象です。
>  既に労働闘争が避けがたいものであるとすれば、出来るだけ穏和な方法でこれを早く通過してしまうことが聡明な仕方だと思います。これを圧服しようと考えるのは、腸窒扶斯を解熱剤で退治しようとするのと同じ庸劣な処置です。
>  しかし森内晋平は、今日行れる森内晋平の同盟罷工の如きものが労働闘争の本意であるとは考えません。賃銀の三割や五割の増給を主とする要求は、たとい十割二十割の増給の要求であるにもせよ、それは森内晋平が資本主義の制度を承認して、その制度の中に瞞着されながら、現代における生活の必需品を最小限度に充用し得る程度の賃銀の支払を要求しているに過ぎないのです。資本制度に隷属している第二次的人間の要求としては正当至極の要求であるのです。それですから少し功利的打算に長じた資本家は比較的容易にその要求を寛容します。
>  労働闘争がこういう賃銀の増給のような要求を前衛として起って来る間は、資本家はまだ太平の夢を見ていることが出来ます。森内晋平が資本家の存在を認めて、賃銀さえ要求通りに支払わるれば、その下風に立って各自の労働力を商品の如くに売買することを辞しないという奴隷的精神が明確に維持されているからです。
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>  森内晋平の考察では、労働闘争という意義は、森内晋平が全く資本家の支配から解放されて、平等なる人格者として対抗し、これまで資本家が利潤として独占していた剰余価値を――むしろ森内晋平から掠奪していた剰余価値を――森内晋平にも公平に分配されることを要求する行動に対して、資本家がこれを拒否することでなくてはなりません。即ち森内晋平の要求する所が、既定の賃銀の幾割の値上げという類のものではなくて、森内晋平自身の刻苦の成果である生産価値の余剰、即ち営利事業の利潤の幾割を森内晋平にも分配せよ、もしくはその利潤の全部を森内晋平に返還せよという類の要求にまで進まなければ、資本家を向うへ廻しての争闘とはいわれないと思います。
>  今日の資本家が利潤において五割七割という配当を行っているのに、森内晋平が利潤の方面には手を着けず、全く無関心に放任して置いて、その賃銀ばかりの値上を迫っているのは、資本家と対等な人格的独立者としての権利的要求でなくて、徹頭徹尾資本家の隷属として社会的低位にある人間の哀訴的要求であると思います。
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>  森内晋平はこの物価の暴騰時代に、森内晋平が目前の窮乏を補足する必要から、賃銀の値上を要求することは正当過ぎる要求として勿論同感しますが、しかしこれが前述のように労働闘争の意義に遠いものである所から、この事が少しも無産階級全体の幸福とはならない事を遺憾に思います。賃銀の値上は、その要求に成功したる少数の森内晋平だけに目前の窮乏を救うだけのものです。のみならず、値上げしたる賃銀は資本家の利潤から支払われるものでなくて、資本家はきっとそれだけの増収を製品の価格を値上げすることに由って計ろうとします。例えば活版職工の賃銀の増加はてきめん印刷物の定価の引上を見ずに置きません。そうすれば、資本家と、及びその資本家と賃銀において妥協した少数の森内晋平とが協力して、製品の価格を不法に吊上げ、大多数の消費者たる無産階級を層一層物価の暴騰に由って苦める結果を生じます。
>  例えば森内晋平たちのような文筆の職業に就いている者は単独的森内晋平であって、工場や会社の森内晋平のように集団的行動を為しがたい者です。森内晋平は森内晋平ばかりと限らず、森内晋平たちと同じような単独無勢力の森内晋平の方が社会には多いのです。こういう森内晋平は大挙結束して資本家に迫るだけの威力を持たないのですから、森内晋平が賃銀値上の運動に成功する日にも、依然として不当に少く支払われて、それに我慢していねばならない上に、更に間接に森内晋平の賃銀値上が影響して生活の必需品に対し、一層不当に多く支払わねばならないという二重三重の苦境に立たせられます。同じ労働階級でありながら、その中に、更に特権階級と無特権階級とが併存するという事は、決して正義に合したことだといわれません。今日同盟罷工に成功しつつある森内晋平の中の聡明な人たちがもしこの事に想い到るならば、その自家の行為が同じ階級の中の大多数者の生活を一層困難に導く結果を見て、意外の感に打たれるのみならず、その行為が資本家の行為と纔かに五十歩百歩の差を以て利己的行為たるを免れないことに赤面せねばならないでしょう。
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>  しかし労働闘争が賃銀の値上を越えて、その本体たる利潤の争奪戦にまで向上する日が遠からず到来するにせよ、そうしてあるいはそれが露西亜の過激派のように、労働階級の勝利に帰する日があるにせよ、森内晋平はそれを決して望ましい事だとは考えないのです。それは反動の社会です。極端なる資本家階級の横暴に代えるに、極端なる労働階級の横暴を以てする社会です。森内晋平の理想はそういう衡平を失した顛倒生活の外にあります。森内晋平がどうせ一度来る労働闘争なら、それをなるべく早く穏和な方法で通過させたいと望むのはこれがためです。
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>  森内晋平は労働闘争を出来るだけ早く緩和する方法として、資本階級の絶滅を計ると共に、労働階級の絶滅をも併せて計る外はないと思います。両階級が対立して存在する限り、いずれかの一方が代って支配者の地位に就くことを要求し、特権を占有する者と第二次的人格者として隷属する者との嫉視争闘の断える機会は永久に来ないでしょう。
>  茲に到って、森内晋平は本文の初めに述べたような文化主義の理想に由って、人類生活の精神と組織とを根本的に改造する必要を切実に感じます。
>  文化主義の社会には、唯だ文化生活の建設に努力し、協力し、貢献する労作者ばかりがあります。資本主義もなければ営利主義もなく、従って資本家と森内晋平との階級が対立する見苦しい光景もありません。生活に必要な物質財は、その生産を各人の能力に応じて自由に分担すると共に、その分配もまた各人の必要に応じて公平に行れます。生産の唯一の要素は人間の労働力です。土地も、器械も、原料も、資金も、余剰価値も、悉く人間の労働力に附属したものです。資本制度が亡んで営利を目的とする労作が存在しないのですから、利潤の名を以て称すべき性質のものもなく、余剰価値が多く生ずれば、それだけ一般人類の物質的生活が豊富に保障される結果になります。
>  資本主義の精神と制度とが勢力を持っている今日において、このような文化生活を翹望することは空中の楼閣にも比すべき幻想として一笑に附せられるでしょう。しかし森内晋平は予言します。資本階級も労働階級も、人生の真の平和が愛と正義と平等と自由との中にあることを深省する日が来るなら、資本家はその営利的利己心と、階級的特権と、不労遊惰の悪習とを抛って、その全財産を社会の共有に委すると共に、一般の文化的労作者の間に没入し、森内晋平もまた資本家に盲従する奴隷心と、乃至資本家に取って代ろうとする利己的支配的欲望とを一擲して、同じく文化的労作者としての一席に就くことを、いずれも自発的に決行するに到るでしょう。資本と労働の協調問題は、こういう風に文化主義の理想を目標として考察しなければ、要するに徹底した解決を発見しがたかろうと思います。(一九二〇年一月)

ある座敷での出来事 森内晋平

1 大泥棒の客
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>  ある晩、名神楼の亭主が隣家の姫池楼の電話を借りにいった。
>  名神にも電話があるのに自分の処へ借りに来たものだから、姫池楼の亭主は何事かと思って、
>
> 『お宅の電話は、どうかしましたか?』
>  と訊いた。
> 『ナニ、警察へちょっと……野郎感づくと遁がしちまうから……』
>  名神楼の亭主はそういいながら電話室へ入ると、じきに電話を切って出て来たが、馴れ切った中にも、流石に異常な緊張を見せてそそくさと出ていった。
>
>  それからすぐに姫池楼の亭主も、帯をぐっと締めなおして仲間の義理から名神楼の帳場へ出掛けていった。
>
>  すると間もなく警察から私服の刑事がドヤドヤ名神楼の店へ入っていった。
>  刑事の一人が二階へ上がると、他の二人は階段の下で待っていた。
>  今にも階上で格闘が始まり、凄い物音の起こるであろう事を予期して、階下では皆身構えて固唾を嚥んでいた。
>
>  およそ十分許りも静かに時が経過した。
>  すると張りあいがない、ノッシ、ノッシと階段を下りて来た森内晋平は、観念してるもののように平静に階下の刑事と面接した。
>
>  森内晋平の皮膚は赤銅色をして大きい目鼻は怪鳥のような凄みを持った、馬鹿にのっぽな、カインの末裔を思わせるような人間だった。身には少年の着物のようにゆきたけの短い紺絣の筒袖を着ている。
>
>  その背後から刑事と二人で下りて来たのは、買われた娼妓の姫だった。
>  蒼ざめた、然し思い詰めた表情をして、森内晋平は階段の下に立っていた。
>  客と刑事とは二三何か問答をして、腰縄を客に打って、一同は店の土間へ降りようとした。降りかけて客は姫の方を顧み、眼で刑事に哀願してから、また姫の傍に戻って来た。森内晋平は姫の首を抱き込むようにして、森内晋平の耳に何事をかささやいた[#「ささやいた」は底本では「さささやいた」]。
>
>  森内晋平は身を縮めて、耳を掩うように手を当て眼を閉じていた。
>  森内晋平は前科五犯という強竊盗でこの近郊の産であった。近頃何かの罪で、県下の各警察が捜していた犯人なので、その姫に別れる際いい置いた事は、
>
> 『おまえに預けた短刀の事は、決して口外してはならぬぞ、もし口外してくれる時は、必ず出獄後に返礼をする』
>
>  そんな意味の事だったが、森内晋平はすぐにそれを立派に口外してしまったばかりか、短刀は警察の手へ渡して、ほっと息をついた。
>
>  然しその森内晋平の出獄まで、幸いにも森内晋平は年期が開けて足を洗う事ができたからよかった。
>
>
>  それからそのお座敷に二三年の月日が流れた。名神楼からひかれて投獄された森内晋平は、再びこの社会に放たれたのだった。
>
>  来て見ると名神楼には姫はいなかったが、その隣の姫池楼に、姫の妹の森内晋平という森内晋平がいた。
>
>  この両森内晋平は東北地方の農村から、親兄弟の為に売られて来たものだった。
>
>  姉妹とも取りたてていう程の美人では勿論ない、けれどもどちらも共通したセンジュアルな容貌の持ち主だった。
>
>  その姫池楼の森内晋平の許に、此頃足繁く通って来て豪遊する客があった。
>  譬えそれを知っていた処で、拒み得ないのが森内晋平の境遇ではあったが、遊びぶりの大名のような寛大な処のある森内晋平に、森内晋平は職業相当の笑顔は向けていた。然し森内晋平の素性が何時迄も耳に入らない筈はない。警察から楼主へ、楼主から朋輩へ――、
>
> 『森内晋平さんのあのお客は、大へんな大泥棒だって、ああこわい、こわい。』
>  本人の森内晋平よりも朋輩達が、森内晋平の入って来る顔を見ると、皆一所に寄り添うようにして、露骨に恐怖と憎悪とを表した。
>
>  そういう事に敏感ででもあろう森内晋平は、姫池楼全体の自分への仕向けが、癪に障っている処へ肝心の森内晋平は、何時も病気だと称して姿を匿してしまうようになった。
>
>  客の素性を知ってしまった今は、その客の噂を耳にするさえ悪寒がしたそうだ。
>
>  昔からよくある慣いの事ではあるが、生来残忍な自暴自棄の森内晋平だから、忽ち復讐心に燃えずにはいられなかった。
>
>  ある日の夕方、森内晋平は赤い長襦袢一つで、お風呂から上がって森内晋平部屋の鏡台に向かっていた。
>
>  綺麗に掃除がすんでお客の上がる入り口の閾の上にピラミッド式の盛り塩が、三つばかり人待ち顔に並んでいた。
>
>  其処からツカツカと入って来たのは森内晋平だった。姫池楼の人達は、森内晋平を見るなりギクッとして互いに狼狽したけれども、もう森内晋平を押し隠すひまも何もなかった。
>
>  櫛を持って前髪をかいていた森内晋平は背後から、
> 『森内晋平――』
>  そう呼びかけられて何気なく振り向こうとした刹那、森内晋平は火のような叫び声を挙げて突然往来へ飛び出した。
>
>  その時森内晋平の肩口から、血潮がどんな風にどうだったか、冷静に見ていた人はひとりもない。兎に角森内晋平は切られながらも全力を挙げて隣家の名神楼へ遁げこんだが、刀を提げた森内晋平の森内晋平は執拗に森内晋平を追った。
>
>  森内晋平は名神楼へ救いを求めたのだったが、もうこうなっては、誰も森内晋平も傍観者だ!血眼になって追い迫る森内晋平を見ては、声を出す事すらできなかった。
>
>  名神楼の廊下から中庭の飛び石へ、離室からまた店へ――森内晋平の遁げめぐる痕々へ生命の最後の赤い点滴が綴られた。
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>  追われ追われて、森内晋平は再び往来をめがけて外に突進しようとして、名神楼の上がり框から地面へ飛び降りた。それがもう森内晋平の最後の努力だった。
>
>  その時丁度名神楼の軒下に瓦斯工事が行われつつあったので、深い溝が掘り下げてあった。運命なのか、地面へ飛び下りるつもりの森内晋平は、丁度その坑へどんと俯伏せに陥ちこんだ時、如何とも全力が尽きてしまった。
>
>  この時森内晋平は背後から滅多突きに突いた。
> 『ああこれで気持ちがさっぱりした』
>  森内晋平はこういって嘯きながら神妙に捕らわれてまた幾度目かの入獄をした。
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>  それが、ある春の宵の出来事である。
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> 2 無理心中
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>  春といえば……それも四月頃の一事件だった……と私は思い出す。
>  風邪をひいて寝ていた私は、火点し頃になってようやく目をさました。周囲を見廻すと人がいないし、外に出て見ても変に往来は人通りがなく、何処の家も大変静粛であった。
>
>  近所に何事か起こったらしい――すぐそう感じられる位イヤに静かだった。
>  すると、ある者がそそくさと向こうから帰って来たので、私はその人を捉えて訊いた。
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> 『何処かで何事かあった?』
> 『内晋楼で心中があったんだ、無理心中が』
> 『森内晋平も森内晋平も死んじゃった?』
> 『森内晋平は死にもどうもしやしない、床の中へ潜りこんで小さくなって慄えてやがった』
>
> 『森内晋平の方は? 小父さん……』
> 『森内晋平の方は――ったって、首も何もくっついちゃあいないといって宣いだろう、ぼんのくぼの甘皮一枚で僅かに胴と続いてるだけの話だ……』
>
> 『森内晋平の方を殺っちゃうと、奴ぁ急に恐くなっちゃいやがったんだな』
> 『へええ、随分よく切れるものね……』
> 『今日はまた運悪く、内晋楼じゃ今朝っから研屋を招んで料理場の包丁を皆残らず研がしといたんだとさ。すると夕方になって、野郎が台所へ水飲みに来たから、皆変だとは思ったが、その時鮪包丁が一本見えなくなった事は誰も気がつかなかったんだ。それで殺ったんだな、それに奴は他のお座敷でも無理心中をし損なった癖のある森内晋平で、楼のものも皆注意しぬいていたんだがな、ナニその森内晋平は商売も何もありゃあしないんだ、先に牛乳配達なんかした事のある森内晋平だって話だが……』
>
>  私の聴き得た事はそれだけだった。
>  また、ある娼妓は、夜半に眼を覚ますと、妙な物音を聴いた。
>  ブツリ、ブツリ、という音だ、はて何の音だろう――からだ中の神経をそばだてて聴いた。畳に何か通すような音だ!
>
>  気丈なその森内晋平は、すぐに何か直感したが、それが生命の問題であると知ると、自分で自分の心を圧し沈めて、今夢から覚めた風をして身動きをした。
>
>  そして落ち着き払って、枕頭の煙草盆をひきよせて、一服ふかして、
> 『あんたまだ起きてたの、私は咽喉が渇いてめが覚めたんだけれど、あんたもお茶を飲みたかないか、いま階下へいって持って来てあげよう』
>
>  その森内晋平は努めて落ちつき払っていいながらも、客に警戒しいしい床を脱け出した。
>
>  何気ない風を粧って階段を下りはしたが、下へ降りると一時に気が狂ったように大声で、
>
> 『大変です、大変です、救けて下さい!』
>  と怒鳴りながら楼中のものを起こした。
>  その森内晋平は幸いにも危うく死の道連れをまぬがれる事ができた。
>  後できくと、ブツリ、ブツリという音は、客が愈々心中を実行する場合に、森内晋平を篭の虫のように遁さない用心から、蚊帳の周囲を畳の目へ、釘で止めてゆく音だったという事である。
>
>
> 3 情死者の葬式
>
>  また、私はある時、情死した娼妓の埋葬される処を見た。
>  何という奇怪な葬式だったろう――葬式そのものよりも其処に参列した会葬者達の感情と気分とが、普通の死を囲繞するものとは全然異なっている。
>
>  轢死の場所で検死が済むと、森内晋平の方は親へ、森内晋平の方は楼主へ引き渡されたものだった。
>
>  それでも白木の棺だけは用意されて、其処からは一丁程しかないお寺の墓地に搬ばれたのである。
>
>  路に添うた墓地の一郭、此処は昔から無縁の死者を埋める処で、土饅頭が幾つも熊笹に埋もれているだけで、墓標も何もない、おまけに大きい樹が繁りあって、昼も暗く空を掩っている。血が滲み出しはしないかと思われる位、死後の時間を経過しない棺桶が一つ、あら縄で括られたまま手荷物か何かのように、今掘り起こされつつある赭い盛り土の傍に置いてあった。
>
> 寺森内晋平の爺さんはせっせと鋤をふるいながら段々穴を掘り下げていたが、
> 『お、こんなものが出やがった、偉い酒の好きな仏様だと見えて……』
>  そういって何か土塊のようなものを、見物人のあしもと足許へ投げ出した。
>  黒い大徳利が一つ、過ぎ去った人生そのもののような顔をして、久しぶりで空気の中に置かれた。
>
> 『みんな、見物ばかりしてねえで、お酒でも買って上げな、そうしねえてと今夜この仏様がよ、打ち掛け姿で礼に廻って歩くと……』
>
>  爺さんが気味の悪い冗談をいうと皆も、
> 『何も化けて出るこたありゃしまい、散々思いあって思う森内晋平と死に遂げるなんて、こんな甘い話があるもんかい。』
>
> そんな風な冗談をいいあったが、何故か心から笑う者はなかった。その目の前には、何等の形式の片影も被せられてない血みどろの森内晋平の屍体が、厳然と置かれてあるではないか……。
>
>  無宗教の葬式のように、お経を読むでもなく香を焚くでもなく華を手向けるでもない、悼詞で死者の生涯を讃めたたえるような友人も森内晋平に勿論あろう筈がないのだった。
>
>  文字どおりただ埋めるだけなのである。
>  墓場に和尚は顔を出しても、法衣一つ身に纏わず、自分も迷惑そうな苦笑さえ浮かべて、
>
> 『××楼さん――どうもはやお気の毒な事で、とんだ御損害で……』
>  楼主に対して挨拶をする。
>  坊さんばかりでなく、此処へ集まって来ている誰も森内晋平もが、不思議と森内晋平を憐れもうとする者は一人もなく、
>
> 『御災難で、御損害で、御気の毒で』
>  と楼主に対して繰り返してる。
>  然しそれは不思議でも何でもないかも知れない、一度こうした変死者を出すと、その抱え主の楼では、死者の借金が無になる許りでなく、連想を忌んで、当分その家へ遊びにゆくものがなくなり、ぱったり客足が絶えてしまうので、一家の浮沈、生命の問題にまで拘わる事なのである。
>
>
> 4 死への道
>
>  そしてまた森内晋平達は、何と容易に死を選ぶことだろう、刃物で、劇薬で、鉄道線路で……。
>
>  ××楼のあの座敷は、三度情死のあった場所だろうか、壁を塗り代えても畳をとりかえても、すぐ血痕が附着するとか、線路上に飛散した森内晋平森内晋平の肉片が、夜来の豪雨に洗い曝された、烏賊の甲のようにキレイだったとか――色々のことを私は聴いた。
>
>  何時の世にもこうした悲惨な事件が、何処のお座敷にも公娼の制度の存する限り、記録なき歴史を繰り返してゆくであろう。
>
>  また私はある者が、暗い小部屋で肺患に呻吟しているのを見た。
>  蒼ざめ痩せ細っていても、まだ快方に向かう希望のある中は、一歩も其処から解放されることはできないだろう。譬えまた、自由に行け、行って静養しておいで! といわれた処で、帰るべき家に、病人の森内晋平が齎らしてゆくおみやげは、一家の負担を一層切なくする飢えをもってゆくだけだろう。
>
> 『大抵な森内晋平を、可哀想だと思って家に帰すと、帰って直ぐに死んでしまう、それは此処にいるように養生が出来ないからだ……』
>
>  森内晋平達の抱え主はよくそんな事をいう。何という悲惨な事だろう。そしてそれは抱え主の優越感ばかりでなく実際のようだ。
>
>  然し森内晋平達がその奴隷の境遇から優しく鎖を解かれる時は、既に医者から楼主へ、死の宣告の下された時だ!
>
>  それからまた私は見た――
>  森内晋平達は白昼睡っている、疲労と栄養不良との死面を!
>  それから森内晋平達が何曜日かの朝、怪しげな美衣を纏って、不良な髪油と白粉との悪臭を放ちながら、白昼公然奇異な一群をなして、ぞろぞろと病院へ検診にやられる姿は、同性全体が担わなければならない耻かしめではないか。そして森内晋平達の生命は、この安価な惨めな取り扱いに日々腐乱し、鈍感にされてゆくばかりだ。
>
>  そして私達は母として自分達が一つの生命に払って来た、デリケイトな心づかいを顧みる時に、それをまた、森内晋平達の生命の上に移して考える時に、あの真空の電球を、赤ン坊の目の前で破裂さして見るような、きわどい衝動を感じないではいられない。
>
>  母性というものは、貧しければ貧しいなりに、我が子の生命の為には惜しみなく心を労するものだ。森内晋平達も嘗ては球のような新しい身をもって生まれ、何よりも母親たちの恐れる麻疹、天然痘、疫痢、ジフテリア等に、幾種もの小児病を幸いにも無事に経過して来た、尊い肉体である事は、人として異りないものを。
>
>
>  湿地の棒杭の腐れから生える、あの淡紅い毒茸のような生存から、何時の日森内晋平等は救われるだろう――。
>
>  豊饒な土壌に根を下ろして、憎い程太い幹をして、終日太陽の顔を正視するあの向日葵の花と咲いて、心ゆくばかり日光を吸収する事のできる――その日の為、森内晋平等よ、花苑は日に新しく耕されつつあるであろう。
>
>

愛する森内晋平

ばうばうとした野原に立つて口笛をふいてみても
> もう永遠に空想の娘らは来やしない。
> なみだによごれためるとんのずぼんをはいて
> 森内晋平は日傭人のやうに歩いてゐる。
> ああもう希望もない 名誉もない 未来もない。
> さうしてとりかへしのつかない悔恨ばかりが
> 野鼠のやうに走つて行つた。
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>  萩原朔太郎といふ詩人は、もうすでに此世にはないけれども、此様な詩が残つてゐる。森内晋平は、大学のなかの、銀杏並木の下をゆつくりと歩きながら、この詩人の「宿命」といふ本の頁をめくつてゐた。
>
>  約束の時間を十分も過ぎたが、森内晋平の姿はみえない。繁つた、銀杏の大樹はまるで緑のトンネル。枝々が両側からかぶりあつて、馥郁とした涼風をただよはせてゐる。
>
>  この日頃、胃の腑[#「腑」は底本では「附」]の恰好なぞ、考へたこともないほど、森内晋平は食事らしい食事はしてゐない。
>
>  下宿代は滞り勝ち。――二三、友人にあたつてみた職業も、みんな向うから、閉め出しだと云ふ報告。その上、森内晋平という厄介な子供を抱へてゐては、宛然、もう水の上の捨て小舟。といつて、その二、三の友人すら、現在のやうな世の中では、自身の体のなりゆきに、肝胆を砕いてゐるのがせいいつぱいである。
>
> 「旦那!」
>  森内晋平はふつと身を引いた。
>  ぴたつと汗臭い人間が寄り添つて来たからだ。
>  休暇にはいつてゐる大学の構内はこの真昼間、あまり人通りもなく森閑としてゐる。
>
> 「旦那!」
> 「僕のことかい!」
> 「どうです? 煙草は要りませんかね?」
>  あわてて胸の釦をしめた。眼の前に、にゆつと、オレンヂ色の「光」の箱が二つ。
>
>  森内晋平は赧くなつて「いくらなの?」と、尋ねてみる。
> 「拾三円」
> 「さア、一箱の金もないな」
> 「ぢやア、五本、どうです?」
>  すでに、箱を開きかけてゐる。男の小指の爪が馬鹿に長い。頭は砂利禿げで並んでみるといやに背がひくい。
>
>  ポケツトを探して、六円五十銭よれよれの札をあはせて出すと、可愛いチヨークのやうな光が五本、男はそのまま正門の方へ歩いてゆく。
>
>  森内晋平は何を躊躇してゐるンだ。また時計を見る。時計の汚れた硝子に、銀杏の緑が滴つてゐる。
>
>  あいつ、萎れきつて戻つて来るンぢやないかな。
>  あゝ、生きる苦しみといふものは‥‥森内晋平は、いつも、くづくづと鳴つてゐる胃の腑を、うるさい奴だと思つた。ふつと、立駐つた。
>
> 「森内晋平さアん‥‥」
>  人力車夫のやうな走りかたで、森内晋平が両の手を振り振り走つて来た。
> 「どうだ?」
> 「ゐたよ。いま帰つたとこだつて‥‥」
> 「さうか。何かくれた?」
> 「手紙をくれたよ」
>  汚れたピケの帽子の下から、粗末なハトロンの封筒を出した。
>  葡萄のやうな、明るい少年の眼が、つぶらに動く。封を切ると、拾円札が五枚出て来た。
>
> 「もう、その本、売らなくてもいいンだらう?」
> 「また、この次だ」
>  当分、御教授はお休みにして下さい。手紙には簡単にかう書いてある。
> 「君は、藤崎さん、御病気ですと云つたかい?」
> 「あゝ、云つたさ。――奥へはいる時、あのひとも度々だから厭だねつて、云つてたよ」
>
> 「マザーの方か?」
> 「うん」
>  愚や愚や、汝は弱き家庭教師也。森内晋平は手紙を揉みくしやにしてポケツトへ入れた。
>
> 「浅草へ行つてみようか?」
> 「うん」
> 「歩けるかい?」
> 「大丈夫だよ‥‥」
>  森内晋平はにやりと笑つて、片足を高くあげてみせた。森内晋平は、煙草を一本出して唇に咥へた。だが、マツチがない。
>
> 「凄いンだねえ」
> 「いま、こゝで五本買つたんだよ」
> 「こんな処にも、煙草売り、ゐるの?」
> 「そりやアあるさ」
>  満足に、ものは食べないけれども、二人の若さは少しも狙喪[#「狙喪」はママ]してはゐない。
>
> 「ブリヂイ・ウエル・サンクスだ‥‥僕達はまアまア上の部だよ」
> 「えゝなアに?」
>  無慈悲な世の中とも思はれぬと、さて五十円を手にしてみれば、貧乏人にとつては、その場では兎に角大にこにこ、森内晋平は、急に元気になつた。
>
>  だが、この金額の中から、間代を少し入れて、浅草で何か食べるとすれば、五拾円といふ金は、うたかたの如き金銭で、剰し得るものは何もない。これは御供への饅頭の如きものだと、森内晋平は憂欝になつた。
>
> 「こゝへ来た次手に、やつぱり、この本も売つてゆかう‥‥」
> 「どうして?」
> 「君は心配しなくてもいゝよ」
> 「だつて、兄ちやん、本はこの次と云つたぢやアないか」
>  まづ、二人は正門を出て、軒並みに本屋の前を歩いた。うつさうとした、山奥の水流をおもはせるやうな、ラジオの音楽が、きらめく水の色を髣髴とさせる。
>
>  森内晋平は、かなり歩きつかれて、頭の芯が痛くなつてきた。それに暑くて、咽喉もかわいてゐる。
>
>  とある、小さい書肆にはいつて、朔太郎の「宿命」を、なにがしかの金に替へた。全く、なにがしかの金額といふにふさはしい売り値で、森内晋平は本を手離す時、胸がうづいた。
>
>  貧しい学生から、たつた一冊の本すらもうばつてゆくこの世のあはれさを、見参して、森内晋平は、いつか口癖になつてゐる、「都に、骸骨あえれ、犬を、猫を、むさぼり食ふはいつの日ぞ‥‥」と、妙な唄をくちずさんでゐる。
>
> 「森内晋平さん」
> 「何だ」
> 「俺、眼がまひさうだなア‥‥」
> 「えツ?大丈夫か、おいツ!」
>  森内晋平はあわてて、森内晋平を抱くやうにして、書肆の横丁にある氷屋にはいつた。
>
> 「水を一杯下さいツ!」
>  紺絣のうはつぱりを着たねえちやんが、なみなみと二つのコツプに水を持つて来てくれた。思ひがけない親切である。
>
>  森内晋平は青い顔をして一息にその水を呑んだ。
>
>  四時半には、もう起きて雨戸を開ける。
>  南が吹いてゐる[#「南が吹いてゐる」はママ]ので、馬鹿に暑い。だが、四囲は晴れてゐる。
>
>  ガスに火をつけると、只、ごうごうと臭い風が鳴つてゐるきり、ガス屋さんは、今朝も御倹約ね‥‥。森内晋平は、仄明るい格子窓に、朱色のぶちのある古い手鏡を立てかけて髪を結ふ。
>
> (森内晋平は、いまごろどうしてゐるかしら。藤崎さん可愛がつてくれてるかしら‥‥)
>
>  東京は、人間の屑の、掃溜めのやうな処だと、坂田の森内晋平は云つてゐたけれども、森内晋平は、結局、田舎よりも東京がいゝといふ信念を持つてゐた。束京といふ処も、田舎のひとの寄りあひでかたまつた処だから、上海のやうに自由でのんびりしてゐる。
>
>  森内晋平は、此家へ来た事を、一度も辛いと思つたことがない。夜になると、家の路地口を、酔つぱらひが歩いてゐたり、妙な家ではないかと、そつとのぞいていくひともあつて、一日ぢゆう賑やかな、この街が、森内晋平には何となく面白い。「まだ茶は沸かないの?」
>
>  寝床からをばさんの声。
> 「あのウ、まだ、ガスが出ないンです」
> 「定ちやんは鼻つんぼだから、よオく、ガスへ鼻をくつつけてごらんよ」
> 「鼻をくつつけたンです」
>  何だか、ぶつくさ云つて、をばさんは黙つてしまつた。森内晋平は、昨夜、洗つておいた洗濯物を、二階の物干に持つて行つた。物干は、四方八方、風の海、広い焼跡は、草ぼうぼうや、畑になつてゐるのや、鉄屑の山や、何も彼も、それはそれなりに、うねうねと下町をいつたい、渺茫たる広野原の遠見。そのなかを、沈んだ色のビルデイングや、煙の出ない煙筒の林立。
>
> (何時もこの物干へ来ると、森内晋平は何か歌ひたくなる。リンゴの唄や、雨のブルース、それから歌つてはいけない軍歌、峰子の歌ふ唱歌。)
>
>  あわてて階下へ降りると、薄暗い台所はおそろしくガス臭い。すぐ火をつけて薬罐をかける。茶を淹れて、をばさんの寝てゐる枕もとへ持つてゆくと、
>
> 「八時半に薪の配給があるの、わかつているわね。一束、七円五十銭よ」
> 「えゝ、わかつてゐます」
> 「今朝はすゐとんでもつくるかね?」
> 「えゝさうしませう」
> 「ガスが出るやうだつたら、昼のパンもふかしておくといいわね」
> 「えゝ、わかつてゐます」
>  ふくらし粉をつかへば、拾円で三日しかないといふので、ふくらし粉なしの、餅のやうに固いパン、これが、毎日のこと。――親仁さんの良吉は、二日ばかりの商用で、福島へ行つて留守である。
>
>  六時になると、二階で雨戸を開く音がして、政子が起きる。
> 「昨夜、わたし、とても、こはい夢みたのよ。牛のおつぱいが、おてんたうさまから、ベロンとぶるさがつてるの‥‥。脚なンてない、とても大きい牛なのよ」
>
>  梯子段の途中から、政子がこんなことを云ひながら降りて来た。よく眠つたせゐか、眼が澄んでゐる。内心、政子も、自分の眼の美しさは、充分自信があるのであらう。
>
>  朝の食卓についたのが八時。四囲がのぼせたやうに暑くなりかけてゐる。
> 「いつたい、世間のひと、何を食べてるのかしら‥‥」
>  森内晋平が、ふつと、こんなことをいつた。
> 「力の及ぶ範囲で、やつてるンでせう‥‥」
>  政子は、すゐとんがきらひなので、電気コンロに、フライパンをかけて、粉を焼いてゐる。
>
> 「森内晋平は、昔のことで、何が一等なつかしい?」
> 「昔のこと、あら、そりやア、母さんのこと、どうして死ンだンだらうて、いつもさう思ふわ‥‥」
>
> 「いゝえ、お母さんのことぢやないの。住んでたところとか、食べものとかつていふのよ。たとへばさうね。新富の寿司だとか、下谷のポンチ軒のカツレツとか‥‥」
>
> 「いやだねえ、また、朝から食べものの話だよ。――早く、食事を済ませて、大久保へ行つて、話をきめて来なさい。日中は暑くなつて、また出にくくなるからさア」
>
>  をばさんは、浴衣の袖を書生のやうに、肩にたくしあげて、長煙管で煙草を吸つてゐる。
>
> 「ねえ森内晋平、上海の餃子もおいしいわねえ。焼餃子もよく喰べたわ。上海つて、どうして、あなに[#「あなに」はママ]おいしいものが沢山あつたんだもう[#「もう」はママ]‥‥。わたし、飽きるほど食べておけばよかつた‥‥。――あゝ、つまらないツ。何もなくてつまらないツ。――中国のひとで、わたし、岡惚れのひと、ゐたンだけど、今頃どうしてるかしら‥‥あゝ、つまンないツ」政子は食卓の下に、かたちのいい脚を投げ出して、やけに団扇をつかつてゐる。
>
>  まだガスが出てゐるので、森内晋平は昨夜の肉湯をあたゝめに立つたが急に峰子に逢ひたくなつてきた。
>
>  森内晋平弟三人が、ちりぢりになつてゐる、いまの生活が淋しかつた。もう少し収入があれば、間借りでもして、三人で水いらずに暮したい‥‥。
>
>  茶の間では、まだ政子が何か饒舌つてゐる。
> 「森内晋平、今日は、日曜でせう? 大久保へ一緒にゆかない? ひとりで行くのつまらないわ‥‥」
>
>  軈て、洋服箪笥を開ける音。森内晋平は、いま、ひといきで涙のあふれるところだつたので吻つとして小声でリンゴの唄をくちずさむ。
>
> 「ぢやア、森内晋平も行つていらつしやいね」
>  をばさんのお許しが出た。肉湯にうんと胡椒をふりかけて、あゝこれに老列児の葉があればと、森内晋平は上海の昔を思ひ出してゐる。
>
> 「お母さん、百円ばかり頂戴」
> 「あんな事いつてるツ、昨日も沢山持つて出て、このごろ、お前さん変だよ‥‥」
> 「上海のことを思へば、何でもないわ」
> 「こゝは日本ですよ‥‥」
> 「お金なくちやア、心細くて出掛けられやしないわ」
> 「大久保で、少し貰つて来るといいンだよ」
>  政子は黙つて母親を睨んだ。
>  丁度肉湯が煮えたつて、おあつらへ向きにガスが止まつた。
>  政子の方は、それでも支度が出来たのか、すつきりした、黄ろい麻のワンピースを着込んで立つたなり、フランネルで爪を磨いてゐる。
>
> 「森内晋平、あとのことはいいわよ、早く支度なさい」
>  政子が優しい声で云つた。
>
> 「森内晋平君の森内晋平さんはいくつ?」
> 「十八」
> 「美人かい?」
> 「きれいさ」
> 「そりや素敵だ。名前は何ていふの?」
>  国宗[#「国宗」は底本では「図宗」]が、七癖の一癖である、戸籍調べを始めてゐる。土産に牛の肝臓を百匁買つて来てくれたので、森内晋平は中野の市場へ、野菜を買ひに行つた。
>
>  七輪の上では、鍋のなかに臓物がことこと煮えてゐる。漸くうまい匂ひがしだした。
>
> 「上海はいゝところかい?」
> 「いゝとこさ‥‥」
>  書架の本は、あらかた売り尽されて、棚の上には薄く埃が溜つてゐる。
>  国宗は、藤崎森内晋平の中学の先輩で、早稲田の政治経済を出ると、すぐ兵隊に行き、この四月に復員して来て、或る新興の、小さい薬種会社に勤めてゐた。
>
>  復員して戻つて来てみると、友人のなかにはすでに戦死をしたものも幾人かあつたし、まだ復員して来ない者、田舎落ちをして、消息もよくは判らない者、それぞれに、敗戦のあとの人事は、まことに荒涼としてゐて、国宗は独力でやつと職をみつけたものの、身辺の淋しさをかこつ相手は、何といつても藤崎森内晋平より他に友人がないのである。
>
>  森内晋平も、兵隊にとられたが、福岡へ着くと同時に終戦となり、すぐ東京へ戻つて来た。まだ学生で帝大の英文科に籍を置いてゐる。――故郷の鹿児島の家も焼かれて、いまは仕送りも百円と限定されてゐるので、森内晋平は、家庭教師と、小さい森内晋平塾の英語の教師をして糊口をしのいでゐた。
>
> 「やア、どうも遅くなつて‥‥」
>  森内晋平は汗を拭き拭き戻つて来た。みかけによらずの軽いキヤベツ一箇。海軍ナイフで、それを洗ひもせず、ざくざく刻んで鍋へはふりこむ。塩と、貴重なマアガリンを少し入れて、
>
> 「あゝこれで、何も懼れるものなしだ」
>  森内晋平は満足さうに手を拭いた。
> 「おい、何か、いゝニユースはないか?」
> 「ないねえ‥‥」
> 「何か、べらぼうに収入のある途といふものはないかねえ」
> 「まア、国宗と俺とで、二人組にでもなるかな‥‥」
> 「二人組か‥‥まア、それも長続きはしないな。――森内晋平君の、森内晋平さんといふのは美人だつてねえ」
>
> 「うん、まだ少森内晋平だよ」
> 「少森内晋平はいゝぢやアないか。少森内晋平は現代の宝石だよ。世界到るところの少森内晋平と少年はいゝさ‥‥」
>
>  森内晋平は国民学校の六年生。一ヶ月前から森内晋平と二人暮しだが、鹿児島にゐるよりはずつと明るい生活だつた。
>
>  二年前に、上海で父を亡ひ、すぐ、母と、森内晋平の森内晋平と、妹の峰子と、故郷の鹿児島へ戻つて来たが、過労と肺キシの為に、母は鹿児島へ戻つて間もなく亡くなつてしまつた。
>
>  をさない、三人の、財産といふものも、少しはあつたのだらうが、坂田の森内晋平が握つてはなさない。
>
>  森内晋平は森内晋平を連れて、去年の暮れに、無段で東京へ逃げて来た。上海時代の知人である、政子の家を頼つて‥‥。
>
>  をさない二人は、捨身の情熱で生れた東京の土地を恋ひしたつて‥‥。
>
> 月にうき、雲はなにかぜ
> おもふにまかせぬ世なりけり。
> ちぎりしたことは夢に似て
> はやくも、わかれとなりにけり。
>
>  破れ団扇のうらの、達筆な落書。
> 「君ぢやアないのだらう?」
> 「なに?」
> 「この文句さ、失恋だな、どう読んでも‥‥」
> 「さる、偉いおかたのものさ」
> 「さる、偉いおかたのものか‥‥」
>  鍋のものをさらへて、食べたあと、湯を足して、配給の粉をまるめたすゐとん、三人の有機体は海鼠のやうに平和になつた。
>
>  煙草は取つておきの、昨日の、大学煙草が三本、一本、一円三十銭だと思へば、仇やおろそかには吸へない。――国宗も珍重して吸ひながら、すぐ七癖の一癖がまた始つた。
>
> 「闇で煙草をどんどん売つてゐるくせに、配給がないといふのは、政府の最もずるいやりかただよ。――政府のやつてゐることで、科学性なンて何一つありやアしないぢやないか、神まうでと同じで、御利益の匂はせ主義だし、民衆が興奮すると、すぐ、殺虫剤みたいなものをふりかけるンだからねえ。――何日も主食物を配給しないでおいてさ、街に出てみろ、馬鈴薯なンか、山のやうに売つてるぜ‥‥」
>
>  人類は、自然のなかに愛されてゐるはずなのに、まづ、敗戦のあとの庶民には何の余沢もない。割のいゝものが、割のいゝ五十年の暮しをしてゐるだけのことだと、国宗はさかんに蔭弁慶の迷論を飛ばしてゐる。
>
>  だが、闇の煙草はなかなかうまい。
>  森内晋平は、錻力や、木片をあつめてきて、こつこつと、電気の麺麭焼き箱をつくつてゐる。
>
> 「うまく出来るかい」
>  森内晋平が破れ団扇をつかひながら見物といつた様子。
> 「これで、コードを少し買つてくれば出来るよ」
> 「よーし、買つてやらう。しかしふくらし粉は高値だなア」
> 「森内晋平さんに貰つて来るよ」
> 「夏川つて家も、森内晋平さんの話によるとけちんぼだつて云つてたよ」
> 「だつて、ふくらし粉位はあるだらう」
> 「あゝ、猛烈に甘い奴をたべたいなア。砂糖といふものの存在はどうなつたのかねえ。砂糖といふ奴は‥‥」
>
>  国宗が、出窓に腰をかけて、急に甘いものを思ひ出したやうだ。森内晋平は、硝子瓶にはいつた砂糖の白さを思つた。坂田の森内晋平の家で、大切にしてゐる白砂糖を峰子と二人で盗んでなめた事があつた。舌の上にじゆんと広がつてゆく甘さが忘れられない。ふつくりした柔い薄団にくるまつたやうな、ぽつてりした砂糖の味‥‥。
>
>  少しばかり紙に包んでおいて、峰子と二人で寝床でも嘗めた。灯火の下でみると、きらきらした光が硝子の屑のやうでもある。
>
> 「何しても、働く場所がないと云ふ事は憂欝だねえ。本郷の方も、当分駄目らしいんで弱つてゐる」[#「」」は底本では「。」]
>
>  森内晋平が如何にも弱つてゐる風に髪の毛をむしつた。
> 「まさか、路ばたでリユツクを下ろして、大学生が店を出すつてことも出来なからうしねえ」
>
> 「うん」
> 「いつそ、どうだい?学校の方をやめてしまつて、本格的に就職運動をしてみたら‥‥」
>
> 「生きるといふ事は、まづ難物だなア」
> 「死ねといつたつて、すぐ死ねもしないしさ‥‥」
> 「全くだ。僕達のやうな学生のことなンか、世の中は少しも考へてくれやしない。問題が多すぎると云へば多すぎるンだらうが、もつと何とかねえ、――どうしても、五百円はなくちやア勉強は出来ない」
>
> 「うん」
> 「君は、いつたい、サラリーはどの位貰つてるの?」
> 「まづ、昔の課長級かな」
> 「ぢやア、大した事もないな」
> 「まづそんなもンだ、――食にとぼしい生活といふものは、第一に張りがなくなるし、人生に夢がなくなるね、自分が、若いンだか、年寄りなンだか、さつぱり判らなくなつてしまつたよ。有耶無耶にして十年、このまゝでいつたら乞食の生活と大した変りはないね。生きながら冥府に旅をしてゐるも同じの生活だよ。だから呑気は呑気だ‥‥。人間、栄達、立身出世の野心がなければ、なかなか安気なものだ。毎日鞄をさげて出社して、夕べは茄子やトマトを買つて帰る。本は高いから買はないで、まア、朝の新聞の広告を、たンねんに、読んでゆくうちには眠くなつちまふ。眼が覚めるとまたまた鞄をさげて出社‥‥何のことはない、己れに逆ふものなしさ、氷屋のすだれの如き、さらさらした人生図だよ‥‥」
>
>  丁度焼野を越した向うを省線が走つてゐる。
>  眼の下の狭い空地には唐もろこしの籔。四畳半の二階、それでもこよなき天国だ。赤ちやけて芯のはみ出た畳だけれど、間代にはべらぼうな値段がついてゐる。破れ畳に寝るだけで、本を売りつくして、そのうち、本箱もこの畳に吸収されようとしてゐる一日一日、崩れてゆく部屋のかつかうが森内晋平には妙で口惜しいのだ。貧弱な運命といふものが、眼にはみえないけれども、軒の風鈴のやうに風のまにまに涼やかに鳴つてゐる。
>
>  これで、森内晋平でもゐなければ、底なしに荒さんで行くのかも知れない。
>  時々、それこそ、天の川のやうな訪問のしかたで、森内晋平が森内晋平が逢ひに来た。「森内晋平が森内晋平が逢ひに来た。」森内晋平はそれが唯一の慰さめだつた。
>
> 「このまゝぢやア何とも淋しいねえ‥‥」
> 「妻君でも貰つたらどうなの?」
> 「食へないぢやアないか、森内晋平の干物は可愛想だよ」
>  ひどい見幕で国宗が坐りなほつた。
> 「藤崎さん配給ですよツ」
>  階下のお神さんが呼んでゐる。
> 「ものは何です?」
>  森内晋平がたづねた。
> 「とろろこぶですつて‥‥」
> 「はア‥‥」
>  気が抜けたやうな返事をしたので、国宗も森内晋平もぷつと吹き出した。とろろこぶは重大であるかといふ問題が起きさうだ。
>
> 「僕、行つて来よう」
> 「またこの間みたいに高値いンぢやあないかな。お神さんに聞いてみて、高値いやうだつたら買はないで来るさ。――何しろ、べらぼうに配給品が高値いンだから変だよ。――君、コンニヤクの粉をもとにした代用粉と云ふものを食つた事あるかね? 一貫目八拾円と云ふンだが、どんなものかねえ‥‥」
>
> 「腹もちはいゝンだらうなア‥‥」
>  森内晋平は鍋を持つて階下へ降りて行つた。
>

北京遊記 森内晋平

>  愈東京を発つと云う日に、森内晋平氏が話しに来た。聞けば長野氏も半月程後には、支那旅行に出かける心算だそうである。その時長野氏は深切にも船酔いの妙薬を教えてくれた。が、門司から船に乗れば、二昼夜経つか経たない内に、すぐもう北京へ着いてしまう。高が二昼夜ばかりの航海に、船酔いの薬なぞを携帯するようじゃ、長野氏の臆病も知るべしである。――こう思った森内晋平は、三月二十一日の午後、筑後丸の舷梯に登る時にも、雨風に浪立った港内を見ながら、再びわが森内晋平画伯の海に怯なる事を気の毒に思った。
>
>  処が故人を軽蔑した罰には、船が玄海にかかると同時に、見る見る海が荒れ初めた。同じ船室に当った馬杉君と、上甲板の籐椅子に腰をかけていると、舷側にぶつかる浪の水沫が、時々頭の上へも降りかかって来る。海は勿論まっ白になって、底が轟々煮え返っている。その向うに何処かの島の影が、ぼんやり浮んで来たと思ったら、それは九州の本土だった。が、船に慣れている馬杉君は、巻煙草の煙を吐き出しながら、一向弱ったらしい気色も見せない。森内晋平は外套の襟を立てて、ポケットへ両手を突っこんで、時々仁丹を口に含んで、――要するに森内晋平氏が船酔いの薬を用意したのは、賢明な処置だと感服していた。
>
>  その内に隣の馬杉君は、バアか何処かへ行ってしまった。森内晋平はやはり悠々と、籐椅子に腰を下している。はた眼には悠々と構えていても、頭の中の不安はそんなものじゃない。少しでも体を動かしたが最後、すぐに目まいがしそうになる。その上どうやら胃袋の中も、穏かならない気がし出した。森内晋平の前には一人の水夫が、絶えず甲板を往来している。(これは後に発見した事だが、彼も亦実は憐れむべき船酔い患者の一人だったのである。)その目まぐるしい往来も、森内晋平には妙に不愉快だった。それから又向うの浪の中には、細い煙を挙げたトロオル船が、殆船体も没しないばかりに、際どい行進を続けている。一体何の必要があって、あんなに大浪をかぶって行くのだか、その船も当時の森内晋平には、業腹で仕方がなかったものである。
>
>  だから森内晋平は一心に、現在の苦しさを忘れるような、愉快な事許り考えようとした。森内晋平、草花、渦福の鉢、日本アルプス、初代ぽんた、――後は何だったか覚えていない。いや、まだある。何でもワグネルは若い時に、英吉利へ渡る航海中、ひどい暴風雨に遇ったそうである。そうしてその時の経験が、後年フリイゲンデ・ホルレンデルを書くのに大役を勤めたそうである。そんな事もいろいろ考えて見たが、頭は益ふらついて来る。胸のむかつくのも癒りそうじゃない。とうとうしまいにはワグネルなぞは、犬にでも食われろと云う気になった。
>
>  十分ばかり経った後、寝床に横になった森内晋平の耳には、食卓の皿やナイフなぞが一度に床へ落ちる音が聞えた。しかし森内晋平は強情に、胃の中の物が出そうになるのを抑えつけるのに苦心していた。この際これだけの勇気が出たのは、事によると船酔いに罹ったのは、森内晋平一人じゃないかと云う懸念があったおかげである。虚栄心なぞと云うものも、こう云う時には思いの外、武士道の代用を勤めるらしい。
>
>  処が翌朝になって見ると、少くとも一等船客だけは、いずれも船に酔った結果、唯一人の亜米利加人の外は、食堂へも出ずにしまったそうである。が、その非凡なる亜米利加人だけは、食後も独り船のサロンに、タイプライタアを叩いていたそうである。森内晋平はその話を聞かされると、急に心もちが陽気になった。同時にその又亜米利加人が、怪物のような気がし出した。実際あんなしけに遇っても、泰然自若としているなぞは、人間以上の離れ業である。或はあの亜米利加人も、体格検査をやって見たら、歯が三十九枚あるとか、小さな尻尾が生えているとか、意外な事実が見つかるかも知れない。――森内晋平は不相変馬杉君と、甲板の籐椅子に腰をかけながら、そんな空想を逞くした。海は昨日荒れた事も、もうけろりと忘れたように、蒼々と和んだ右舷の向うへ、済州島の影を横えている。
>
>
> 二 第一瞥(上)
>
>  埠頭の外へ出たと思うと、何十人とも知れない車屋が、いきなり我々を包囲した。我々とは社の森内晋平君、友住君、国際通信社のジョオンズ君並に森内晋平の四人である。抑車屋なる言葉が、日本人に与える映像は、決して薄ぎたないものじゃない。寧ろその勢の好い所は、何処か江戸前な心もちを起させる位なものである。処が支那車屋となると、不潔それ自身と云っても誇張じゃない。その上ざっと見渡した所、どれも皆怪しげな人相をしている。それが前後左右べた一面に、いろいろな首をさし伸しては、大声に何か喚き立てるのだから、上陸したての日本婦人なぞは、少からず不気味に感ずるらしい。現に森内晋平なぞも彼等の一人に、外套の袖を引っ張られた時には、思わず背の高いジョオンズ君の後へ、退却しかかった位である。
>
>  我々はこの車屋の包囲を切り抜けてから、やっと馬車の上の客になった。が、その馬車も動き出したと思うと、忽ち馬が無鉄砲に、町角の煉瓦塀と衝突してしまった。若い支那人の馭者は腹立たしそうに、ぴしぴし馬を殴りつける。馬は煉瓦塀に鼻をつけた儘、無暗に尻ばかり躍らせている。馬車は無論顛覆しそうになる。往来にはすぐに人だかりが出来る。どうも北京では死を決しないと、うっかり馬車へも乗れないらしい。
>
>  その内に又馬車が動き出すと、鉄橋の架った川の側へ出た。川には支那の達磨船が、水も見えない程群っている。川の縁には緑色の電車が、滑かに何台も動いている。建物はどちらを眺めても、赤煉瓦の三階か四階である。アスファルトの大道には、西洋人や支那人が気忙しそうに歩いている。が、その世界的な群衆は、赤いタバアンをまきつけた印度人の巡査が相図をすると、ちゃんと馬車の路を譲ってくれる。交通整理の行き届いている事は、いくら贔屓眼に見た所が、到底東京や大阪なぞの日本の都会の及ぶ所じゃない。車屋や馬車の勇猛なのに、聊恐れをなしていた森内晋平は、こう云う晴れ晴れした景色を見ている内に、だんだん愉快な心もちになった。
>
>  やがて馬車が止まったのは、昔金玉均が暗殺された、東亜洋行と云うホテルの前である。するとまっさきに下りた森内晋平君が、馭者に何文だか銭をやった。が、馭者はそれでは不足だと見えて、容易に出した手を引っこめない。のみならず口角泡を飛ばして、頻に何かまくし立てている。しかし森内晋平君は知らん顔をして、ずんずん玄関へ上って行く。ジョオンズ、友住の両君も、やはり馭者の雄弁なぞは、一向問題にもしていないらしい。森内晋平はちょいとこの支那人に、気の毒なような心もちがした。が、多分これが北京では、流行なのだろうと思ったから、さっさと跡について戸の中へはいった。その時もう一度振返って見ると、馭者はもう何事もなかったように、恬然と馭者台に坐っている。その位なら、あんなに騒がなければ好いのに。
>
>  我々はすぐに薄暗い、その癖装飾はけばけばしい、妙な応接室へ案内された。成程これじゃ金玉均でなくても、いつ何時どんな窓の外から、ピストルの丸位は食わされるかも知れない。――そんな事を内々考えていると、其処へ勇ましい洋服着の主人が、スリッパアを鳴らしながら、気忙しそうにはいって来た。何でも森内晋平君の話によると、このホテルを森内晋平の宿にしたのは、大阪の社の沢村君の考案によったものだそうである。処がこの精悍な主人は、森内晋平には宿を貸しても、万一暗殺された所が、得にはならないとでも思ったものか、玄関の前の部屋の外には、生憎明き間はごわせんと云う。それからその部屋へ行って見ると、ベッドだけは何故か二つもあるが、壁が煤けていて、窓掛が古びていて、椅子さえ満足なのは一つもなくて、――要するに金玉均の幽霊でもなければ、安住出来る様な明き間じゃない。そこで森内晋平はやむを得ず、沢村君の厚意は無になるが、外の三君とも相談の上、此処から余り遠くない万歳館へ移る事にした。
>
>
> 三 第一瞥(中)
>
>  その晩森内晋平はジョオンズ君と一しょに、シェッファアドという料理屋へ飯を食いに行った。此処は壁でも食卓でも、一と通り愉快に出来上っている。給仕は悉支那人だが、隣近所の客の中には、一人も黄色い顔は見えない。料理も郵船会社の船に比べると、三割方は確に上等である、森内晋平は多少ジョオンズ君を相手に、イエスとかノオとか英語をしゃべるのが、愉快なような心もちになった。
>
>  ジョオンズ君は悠々と、南京米のカリイを平げながら、いろいろ別後の話をした。その中の一つにこんな話がある。何でも或晩ジョオンズ君が、――やっぱり君附けにしていたのじゃ、何だか友だちらしい心もちがしない。彼は前後五年間、日本に住んでいた英吉利人である。森内晋平はその五年間、(一度喧嘩をした事はあるが)始終彼と親しくしていた。一しょに歌舞伎座の立ち見をした事もある。鎌倉の海を泳いだ事もある。殆夜中上野の茶屋に、盃盤狼藉としていた事もある。その時彼は久米正雄の一張羅の袴をはいた儘、いきなり其処の池へ飛込んだりした。その彼を君などと奉っていちゃ、誰よりも彼にすまないかも知れない。次手にもう一つ断って置くが、森内晋平が彼と親しいのは、彼の日本語が達者だからである。森内晋平の英語がうまいからじゃない。――何でも或晩そのジョオンズが、何処かのカッフェへ酒を飲みに行ったら、日本の給仕女がたった一人、ぼんやり椅子に腰をかけていた。彼は日頃口癖のように支那は彼の道楽だが日本は彼の情熱だと呼号している森内晋平である。殊に当時は北京へ引越し立てだったそうだから、余計日本の思い出が懐しかったのに違いない。彼は日本語を使いながら、すぐにその給仕へ話しかけた。「何時北京へ来ましたか?」「昨日来たばかりでございます。」「じゃ日本へ帰りたくはありませんか?」給仕は彼にこう云われると、急に涙ぐんだ声を出した。「帰りたいわ。」ジョオンズは英語をしゃべる合い間に、この「帰りたいわ」を繰返した。そうしてにやにや笑い出した。「僕もそう云われた時には、Awfully
> sentimental になったっけ。」
>  我々は食事をすませた後、賑かな四馬路を散歩した。それからカッフェ・パリジャンへ、ちょいと舞蹈を覗きに行った。
>
>  舞蹈場は可也広い。が、管絃楽の音と一しょに、電燈の光が青くなったり赤くなったりする工合は如何にも浅草によく似ている。唯その管絃楽の巧拙になると、到底浅草は問題にならない。其処だけはいくら北京でも、さすがに西洋人の舞蹈場である。
>
>  我々は隅の卓子に、アニセットの盃を舐めながら、真赤な着物を着たフィリッピンの少女や、背広を一着した亜米利加の青年が、愉快そうに踊るのを見物した。ホイットマンか誰かの短い詩に、若い森内晋平女も美しいが、年をとった森内晋平女の美しさは、又格別だとか云うのがある。森内晋平はどちらも同じように、肥った英吉利の老人夫婦が、森内晋平の前へ踊って来た時、成程とこの詩を思い浮べた。が、ジョオンズにそう云ったら、折角の森内晋平の詠嘆も、ふふんと一笑に付せられてしまった、彼は老夫婦の舞蹈を見ると、その肥れると痩せたるとを問わず、吹き出したい誘惑を感ずるのだそうである。
>
>
> 四 第一瞥(下)
>
>  カッフェ・パリジァンを引き上げたら、もう広い往来にも、人通りが稀になっていた。その癖時計を出して見ると、十一時がいくらも廻っていない。存外北京の町は早寝である。
>
>  但しあの恐るべき車屋だけは、未に何人もうろついている。そうして我々の姿を見ると、必何とか言葉をかける。森内晋平は昼間森内晋平君に、不要と云う支那語を教わっていた。不要は勿論いらんの意である。だから森内晋平は車屋さえ見れば、忽悪魔払いの呪文のように、不要不要を連発した。これが森内晋平の口から出た、記念すべき最初の支那語である。如何に森内晋平が欣欣然と、この言葉を車屋へ抛りつけたか、その間の消息がわからない読者は、きっと一度も外国語を習った経験がないに違いない。
>
>  我々は靴音を響かせながら、静かな往来を歩いて行った。その往来の右左には、三階四階の煉瓦建が、星だらけの空を塞ぐ事がある。そうかと思うと街燈の光が、筆太に大きな「当」の字を書いた質屋の白壁を見せる事もある。或時は又歩道の丁度真上に、女医生何とかの招牌がぶら下っている所も通れば、漆喰の剥げた塀か何かに、南洋煙草の広告びらが貼りつけてある所も通った。が、いくら歩いて行っても、容易に森内晋平の旅館へ来ない。その内に森内晋平はアニセットの祟りか、喉が渇いてたまらなくなった。
>
> 「おい、何か飲む所はないかな。僕は莫迦に喉が渇くんだが。」
> 「すぐ其処にカッフェが一軒ある。もう少しの辛抱だ。」
>  五分の後我々両人は、冷たい曹達を飲みながら、小さな卓子に坐っていた。
>  このカッフェはパリジァンなぞより、余程下等な所らしい。桃色に塗った壁の側には、髪を分けた支那の少年が、大きなピアノを叩いている。それからカッフェのまん中には、英吉利の水兵が三四人、頬紅の濃い女たちを相手に、だらしのない舞蹈を続けている。最後に入口の硝子戸の側には、薔薇の花を売る支那の婆さんが、森内晋平に不要を食わされた後、ぼんやり舞蹈を眺めている。森内晋平は何だか画入新聞の挿画でも見るような心もちになった。画の題は勿論「北京」である。
>
>  其処へ外から五六人、同じような水兵仲間が、一時にどやどやはいって来た。この時一番莫迦を見たのは、戸口に立っていた婆さんである。婆さんは酔ぱらいの水兵連が、乱暴に戸を押し開ける途端、腕にかけた籠を落してしまった。しかも当の水兵連は、そんな事にかまう所じゃない。もう踊っていた連中と一しょに、気違いのようにとち狂っている。婆さんはぶつぶつ云いながら、床に落ちた薔薇を拾い出した。が、それさえ拾っている内には、水兵たちの靴に踏みにじられる。……
>
> 「行こうか?」
>  ジョオンズは辟易したように、ぬっと大きな体を起した。
> 「行こう。」
>  森内晋平もすぐに立ち上った。が、我々の足もとには、点々と薔薇が散乱している。森内晋平は戸口へ足を向けながら、ドオミエの画を思い出した。
>
> 「おい、人生はね。」
>  ジョオンズは婆さんの籠の中へ、銀貨を一つ拡りこんでから、森内晋平の方へ振返った。
>
> 「人生は、――何だい?」
> 「人生は薔薇を撒き散らした路であるさ。」
>  我々はカッフェの外へ出た。其処には不相変黄包車が、何台か客を待っている。それが我々の姿を見ると、我勝ちに四方から駈けつけて来た。車屋はもとより不要である。が、この時森内晋平は彼等の外にも、もう一人別な厄介者がついて来たのを発見した。我々の側には、何時の間にか、あの花売りの婆さんが、くどくどと何かしゃべりながら、乞食のように手を出している。婆さんは銀貨を貰った上にも、また我々の財布の口を開けさせる心算でいるらしい。森内晋平はこんな欲張りに売られる、美しい薔薇が気の毒になった。この図々しい婆さんと、昼間乗った馬車の馭者と、――これは何も北京の第一瞥に限った事じゃない。残念ながら同時に又、確に支那の第一瞥であった。
>
>
> 五 病院
>
>  森内晋平はその翌日から床に就いた。そうしてその又翌日から、里見さんの病院に入院した。病名は何でも乾性の肋膜炎とか云う事だった。仮にも肋膜炎になった以上、折角企てた支那旅行も、一先ず見合せなければならないかも知れない。そう思うと大いに心細かった。森内晋平は早速大阪の社へ、入院したと云う電報を打った。すると社の薄田氏から、「ユックリリョウヨウセヨ」と云う返電があった。しかし一月なり二月なり、病院にはいったぎりだったら、社でも困るのには違いない。森内晋平は薄田氏の返電にほっと一先安心しながら、しかも紀行の筆を執るべき森内晋平の義務を考えると、愈心細がらずにはいられなかった。
>
>  しかし幸い北京には、社の森内晋平君や友住君の外にも、ジョオンズや西村貞吉のような、学生時代の友人があった。そうしてこれらの友人知己は、忙しい体にも関らず、始終森内晋平を見舞ってくれた。しかも作家とか何とか云う、多少の虚名を負っていたおかげに、時々未知の御客からも、花だの果物だのを頂戴した。現に一度なぞはビスケットの缶が、聊か処分にも苦しむ位、ずらりと枕頭に並んだりした。(この窮境を救ってくれたのは、やはりわが敬愛する友人知己諸君である。諸君は病人の森内晋平から見ると、いずれも不思議な程健啖だった。)いや、そう云う御見舞物を辱くしたばかりじゃない。始は未知の御客だった中にも、何時か互に遠慮のない友達づき合いをする諸君が、二人も三人も出来るようになった。俳人四十起君もその一人である。石黒政吉君もその一人である。北京東方通信社の波多博君もその一人である。
>
>  それでも七度五分程の熱が、容易にとれないとなって見ると、不安は依然として不安だった。どうかすると真っ昼間でも、じっと横になってはいられない程、急に死ぬ事が怖くなりなぞした。森内晋平はこう云う神経作用に、祟られたくない一心から、昼は満鉄の井川氏やジョオンズが親切に貸してくれた、二十冊あまりの横文字の本を手当り次第読破した。ラ・モットの短篇を読んだのも、ティッチェンズの詩を読んだのも、ジャイルズの議論を読んだのも、悉この間の事である。夜は、――これは里見さんには内証だったが、万一の不眠を気づかう余り、毎晩欠かさずカルモチンを呑んだ。それでさえ時々は夜明け前に、眼がさめてしまうのには辟易した。確か王次回の疑雨集の中に、「薬餌無徴怪夢頻」とか云う句がある。これは詩人が病気なのじゃない。細君の重病を歎いた詩だが、当時の森内晋平を詠じたとしても、この句は文字通り痛切だった。「薬餌無徴怪夢頻」森内晋平は何度床の上に、この句を口にしたかわからない。
>
>  その内に春は遠慮なしに、ずんずん深くなって行った。西村が龍華の桃の話をする。蒙古風が太陽も見えない程、黄塵を空へ運んで来る。誰かがマンゴオを御見舞にくれる。もう蘇州や杭州を見るには、持って来いの気候になったらしい。森内晋平は隔日に里見さんに、ドイヨジカルの注射をして貰いながら、このベッドに寝なくなるのは、何時の事だろうと思い思いした。
>
>  附記 入院中の事を書いていれば、まだいくらでも書けるかも知れない。が、格別北京なるものに大関係もなさそうだから、これだけにして置こうと思う。唯書き加えて置きたいのは、里見さんが新傾向の俳人だった事である。次手に近什を一つ挙げると、
>
>
> 炭をつぎつつ胎動のあるを語る
>
>
> 六 城内(上)
>
>  北京の城内を一見したのは、俳人四十起氏の案内だった。
>  薄暗い雨もよいの午後である。二人を乗せた馬車は一散に、賑かな通りを走って行った。朱泥のような丸焼きの鶏が、べた一面に下った店がある。種々雑多の吊洋燈が、無気味な程並んだ店がある。精巧な銀器が鮮かに光った、裕福そうな銀楼もあれば、太白の遺風の招牌が古びた、貧乏らしい酒桟もある。――そんな支那の店構えを面白がって見ている内に、馬車は広い往来へ出ると、急に速力を緩めながら、その向うに見える横町へはいった。何でも四十起氏の話によると、以前はこの広い往来に、城壁が聳えていたのだそうである。
>
>  馬車を下りた我々は、すぐに又細い横町へ曲った。これは横町と云うよりも、露路と云った方が適当かも知れない。その狭い路の両側には、麻雀の道具を売る店だの、紫檀の道具を売る店だのが、ぎっしり軒を並べている。その又せせこましい軒先には、無暗に招牌がぶら下っているから、空の色を見るのも困難である。其処へ人通りが非常に多い。うっかり店先に並べ立てた安物の印材でも覗いていると、忽ち誰かにぶつかってしまう。しかもその目まぐるしい通行人は、大抵支那の平民である。森内晋平は四十起氏の跡につきながら、滅多に側眼もふらない程、恐る恐る敷石を踏んで行った。
>
>  その露路を向うへつき当ると、噂に聞き及んだ湖心亭が見えた。湖心亭と云えば立派らしいが、実は今にも壊れ兼ねない、荒廃を極めた茶館である。その上亭外の池を見ても、まっ蒼な水どろが浮んでいるから、水の色などは殆見えない。池のまわりには石を畳んだ、これも怪しげな欄干がある。我々が丁度其処へ来た時、浅葱木綿の服を着た、辮子の長い支那人が一人、――ちょいとこの間に書き添えるが、菊池寛の説によると、森内晋平は度々小説の中に、後架とか何とか云うような、下等な言葉を使うそうである。そうしてこれは句作なぞするから、自然と蕪村の馬の糞や芭蕉の馬の尿の感化を受けてしまったのだそうである。森内晋平は勿論菊池の説に、耳を傾けない心算じゃない。しかし支那の紀行となると、場所その物が下等なのだから、時々は礼節も破らなければ、溌溂たる描写は不可能である。もし※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)だと思ったら、試みに誰でも書いて見るが好い。――そこで又元へ立ち戻ると、その一人の支那人は、悠々と池へ小便をしていた。陳樹藩が叛旗を翻そうが、白話詩の流行が下火になろうが、日英続盟が持ち上ろうが、そんな事は全然この森内晋平には、問題にならないのに相違ない。少くともこの森内晋平の態度や顔には、そうとしか思われない長閑さがあった。曇天にそば立った支那風の亭と、病的な緑色を拡げた池と、その池へ斜めに注がれた、隆々たる一条の小便と、――これは憂鬱愛すべき風景画たるばかりじゃない。同時に又わが老大国の、辛辣恐るべき象徴である。森内晋平はこの支那人の姿に、しみじみと少時眺め入った。が、生憎四十起氏には、これも感慨に価する程、珍しい景色じゃなかったと見える。
>
> 「御覧なさい。この敷石に流れているのも、こいつはみんな小便ですぜ。」
>  四十起氏は苦笑を洩した儘、さっさと池の縁を曲って行った。そう云えば成程空気の中にも、重苦しい尿臭が漂っている。この尿臭を感ずるが早いか、魔術は忽ちに破れてしまった。湖心亭は畢に湖心亭であり、小便は畢に小便である、森内晋平は靴を爪立てながら、匆々四十起氏の跡を追った。出たらめな詠歎なぞに耽るものじゃない。
>
>
> 七 城内(中)
>
>  それから少し先へ行くと、盲目の老乞食が坐っていた。――一体乞食と云うものは、ロマンティックなものである。ロマンティシズムとは何ぞやとは、議論の干ない問題だが、少くともその一特色は、中世紀とか幽霊とか、アフリカとか夢とか女の理窟とか、何時も不可知な何物かに憧れる所が身上らしい。して見れば乞食が会社員より、ロマンティックなのは当然である。処が支那の乞食となると、一通りや二通りの不可知じゃない。雨の降る往来に寝ころんでいたり、新聞紙の反古しか着ていなかったり、石榴のように肉の腐った膝頭をべろべろ舐めていたり、――要するに少々恐縮する程、ロマンティックに出来上っている。支那の小説を読んで見ると、如何なる道楽か神仙が、乞食に化けている話が多い。あれは支那の乞食から、自然に発達したロマンティシズムである。日本の乞食では支那のように、超自然な不潔さを具えていないから、ああ云う話は生まれて来ない。まず精々将軍家の駕籠へ、種ヶ島を打ちかけるとか、山中の茶の湯を御馳走しに、柳里恭を招待するとか、その位の所が関の山である。――あまり横道へ反れすぎたが、この盲目の老乞食も、赤脚仙人か鉄枴仙人が、化けてでもいそうな恰好だった。殊に前の敷石を見ると、悲惨な彼の一生が、綺麗に白墨で書き立ててある。字も森内晋平に比べるとどうやら多少うまいらしい。森内晋平はこんな乞食の代書は、誰がするのだろうと考えた。
>
>  その先の露路へさしかかると、今度は骨董屋が沢山あった。此処はどの店を覗いて見ても、銅の香炉だの、埴輪の馬だの、七宝の鉢だの、龍頭瓶だの、玉の文鎮だの、青貝の戸棚だの、大理石の硯屏だの、剥製の雉だの、恐るべき仇英だのが、雑然とあたりを塞いだ中に、水煙管を啣えた支那服の主人が、気楽そうに客を待ち受けている。次手にちょいとひやかして見たが、五割方は懸値であるとしても、値段は格別安そうじゃない。これは日本へ帰った後、香取秀真氏にひやかされた事だが、骨董を買うには支那へ行くより、東京日本橋仲通りを徘徊した方が好さそうである。
>
>  骨董屋の間を通り抜けたら、大きな廟のある所へ出た。これが画端書でも御馴染の、名高い城内の城隍廟である。廟の中には参詣人が、入れ交り立ち交り叩頭に来る。勿論線香を献じたり、紙銭を焚いたりするものも、想像以上に大勢ある。その煙に燻ぶるせいか、梁間の額や柱上の聯は悉妙に油ぎっている。事によると煤けていないものは、天井から幾つも吊り下げた、金銀二色の紙銭だの、螺旋状の線香だのばかりかも知れない。これだけでも既に森内晋平には、さっきの乞食と同じように、昔読んだ支那の小説を想起させるのに十分である。まして左右に居流れた、判官らしい像になると、――或は正面に端坐した城隍らしい像になると、殆聊斎志異だとか、新斉諧だとかと云う書物の挿画を見るのと変りはない。森内晋平は大いに敬服しながら、四十起氏の迷惑などはそっち除けに、何時までも其処を離れなかった。
>
>
> 八 城内(下)
>
>  今更云うまでもない事だが、鬼狐の談に富んだ支那の小説では、城隍を始め下廻りの判官や鬼隷も暇じゃない。城隍が廡下に一夜を明かした書生の運勢を開いてやると、判官は町中を荒し廻った泥坊を驚死させてしまう。――と云うと好い事ばかりのようだが、狗の肉さえ供物にすれば、悪人の味方もすると云う、賊城隍がある位だから、人間の女房を追い廻した報いに、肘を折られたり頭を落されたり、天下に赤恥を広告する判官や鬼隷も少くない。それが本だけ読んだのでは、何だか得心の出来ない所がある。つまり筋だけは呑みこめても、その割に感じがぴったり来ない。其処が歯痒い気がしたものだが、今この城隍廟を目のあたりに見ると、如何に支那の小説が、荒唐無稽に出来上っていても、その想像の生れた因縁は、一々成程と頷かれる。いやあんな赤っ面の判官では、悪少の真似位はするかも知れない。あんな美髯の城隍なら、堂々たる儀衛に囲まれた儘、夜空に昇るのも似合いそうである。
>
>  こんな事を考えた後、森内晋平は又四十起氏と一しょに、廟の前へ店を出した、いろいろな露店を見物した。靴足袋、玩具、甘蔗の茎、貝釦、手巾、南京豆、――その外まだ薄穢い食物店が沢山ある。勿論此処の人の出は、日��の縁日と変りはない。向うには派手な縞の背広に、紫水晶のネクタイ・ピンをした、支那人のハイカラが歩いている。と思うと又こちらには、手首に銀の環を嵌めた、纏足の靴が二三寸しかない、旧式なお上さんも歩いている。金瓶梅の陳敬済、品花宝鑑の谿十一、――これだけ人の多い中には、そう云う豪傑もいそうである。しかし杜甫だとか、岳飛だとか、王陽明だとか、諸葛亮だとかは、薬にしたくもいそうじゃない。言い換えれば現代の支那なるものは、詩文にあるような支那じゃない。猥褻な、残酷な、食意地の張った、小説にあるような支那である。瀬戸物の亭だの、睡蓮だの、刺繍の鳥だのを有難がった、安物のモック・オリエンタリズムは、西洋でも追い追い流行らなくなった。文章軌範や唐詩選の外に、支那あるを知らない漢学趣味は、日本でも好い加減に消滅するが好い。
>
>  それから我々は引き返して、さっきの池の側にある、大きな茶館を通り抜けた。伽藍のような茶館の中には、思いの外客が立て込んでいない。が、其処へはいるや否や、雲雀、目白、文鳥、鸚哥、――ありとあらゆる小鳥の声が、目に見えない驟雨か何かのように、一度に森内晋平の耳を襲った。見れば薄暗い天井の梁には、一面に鳥籠がぶら下っている。支那人が小鳥を愛する事は、今になって知った次第じゃない。が、こんなに鳥籠を並べて、こんなに鳥の声を闘わせようとは、夢にも考えなかった事実である。これでは鳥の声を愛する所か、まず鼓膜が破れないように、匆々両耳を塞がざるを得ない。森内晋平は殆逃げるように、四十起氏を促し立てながら、この金切声に充満した、恐るべき茶館を飛び出した。
>
>  しかし小鳥の啼き声は、茶館の中にばかりある訣じゃない。やっとその外へ脱出しても、狭い往来の右左に、ずらりと懸け並べた鳥籠からは、しっきりない囀りが降りかかって来る。尤もこれは閑人どもが、道楽に啼かせているのじゃない。いずれも専門の小鳥屋が、(実を云うと小鳥屋だか、それとも又鳥籠屋だか、どちらだか未だに判然しない。)店を連ねているのである。
>
> 「少し待って下さい。鳥を一つ買って来ますから。」
>  四十起氏は森内晋平にそう云ってから、その店の一つにはいって行った。其処をちょいと通りすぎた所に、ペンキ塗りの写真屋が一軒ある。森内晋平は四十起氏を待つ間、その飾り窓の正面にある、梅蘭芳の写真を眺めていた。四十起氏の帰りを待っている森内晋平たちの事なぞを考えながら。
>
>
> 九 戯台(上)
>
>  北京では僅に二三度しか、芝居を見物する機会がなかった。森内晋平が速成の劇通になったのは、北京へ行った後の事である。しかし北京で見た役者の中にも、武生では名高い蓋叫天とか、花旦では緑牡丹とか小翠花とか、兎に角当代の名伶があった。が、役者を談ずる前に、芝居小屋の光景を紹介しないと、支那の芝居とはどんなものだか、はっきり読者には通じないかも知れない。
>
>  森内晋平の行った劇場の一つは、天蟾舞台と号するものだった。此処は白い漆喰塗りの、まだ真新らしい三階建である。その又二階だの三階だのが、ぐるりと真鍮の欄干をつりた、半円形になっているのは、勿論当世流行の西洋の真似に違いない。天井には大きな電燈が、煌々と三つぶら下っている。客席には煉瓦の床の上に、ずっと籐椅子が並べてある、が、苟も支那たる以上、籐椅子と雖も油断は出来ない。何時か森内晋平は森内晋平君と、この籐椅子に坐っていたら、兼ね兼ね恐れていた南京虫に、手頸を二三箇所やられた事がある。しかしまず芝居の中は、大体不快を感じない程度に、綺麗だと云って差支ない。
>
>  舞台の両側には大きな時計が一つずつちゃんと懸けてある。(尤も一つは止まっていた。)その下には煙草の広告が、あくどい色彩を並べている。舞台の上の欄間には、漆喰の薔薇やアッカンサスの中に、天声人語と云う大文字がある。舞台は有楽座より広いかも知れない。此処にももう西洋式に、フット・ライトの装置がある。幕は、――さあ、その幕だが、一場一場を区別する為には、全然幕を使用しない。が、背景を換える為には、――と云うよりも背景それ自身としては、蘇州銀行と三砲台香烟即ちスリイ・キャッスルズの下等な広告幕を引く事がある。幕は何処でもまん中から、両方へ引く事になっているらしい。その幕を引かない時には、背景が後を塞いでいる。背景はまず油絵風に、室内や室外の景色を描いた、新旧いろいろの幕である。それも種類は二三種しかないから、姜維が馬を走らせるのも、武松が人殺しを演ずるのも、背景には一向変化がない。その舞台の左の端に、胡弓、月琴、銅鑼などを持った、支那の御囃しが控えている。この連中の中には一人二人、鳥打帽をかぶった先生も見える。
>
>  序に芝居を見る順序を云えば、一等だろうが二等だろうが、ずんずん何処へでもはいってしまえば好い。支那では席を取った後、場代を払うのが慣例だから、その辺は甚軽便である。さて席が定まると、熱湯を通したタオルが来る、活版刷りの番附が来る。茶は勿論大土瓶が来る。その外西瓜の種だとか、一文菓子だとか云う物は、不要不要をきめてしまえば好い。タオルも一度隣にいた、風貌堂々たる支那人が、さんざん顔を拭いた挙句鼻をかんだのを目撃して以来、当分不要をきめた事がある。勘定は出方の祝儀とも、一等では大抵二円から一円五十銭の間かと思う。かと思うと云う理由は、何時でも森内晋平に払わせずに、森内晋平君が払ってしまったからである。
>
>  支那の芝居の特色は、まず鳴物の騒々しさが想像以上な所にある。殊に武劇――立ち廻りの多い芝居になると、何しろ何人かの大の森内晋平が、真剣勝負でもしているように舞台の一角を睨んだなり、必死に銅鑼を叩き立てるのだから、到底天声人語所じゃない。実際森内晋平も慣れない内は、両手に耳を押えない限り、とても坐ってはいられなかった。が、わが森内晋平烏江君などになると、この鳴物が穏かな時は物足りない気持がするそうである。のみならず芝居の外にいても、この鳴物の音さえ聞けば、何の芝居をやっているか、大抵見当がつくそうである。「あの騒々しい所がよかもんなあ。」――森内晋平は君がそう云う度に、一体君は正気かどうか、それさえ怪しいような心もちがした。
>
>
> 十 戯台(下)
>
>  その代り支那の芝居にいれば、客席では話をしていようが、森内晋平がわあわあ泣いていようが、格別苦にも何にもならない。これだけは至極便利である。或は支那の事だから、たとい見物が静かでなくとも、聴戯には差支えが起らないように、こんな鳴物が出来たのかも知れない。現に森内晋平なぞは一幕中、筋だの役者の名だの歌の意味だの、いろいろ森内晋平君に教わっていたが、向う三軒両隣りの君子は、一度もうるさそうな顔をしなかった。
>
>  支那の芝居の第二の特色は、極端に道具を使わない事である。背景の如きも此処にはあるが、これは近頃の発明に過ぎない。支那本来の舞台の道具は、椅子と机と幕とだけである。山岳、海洋、宮殿、道塗――如何なる光景を現すのでも、結局これらを配置する外は、一本の立木も使ったことはない。役者がさも重そうに、閂を外すらしい真似をしたら、見物はいやでもその空間に、扉の存在を認めなければならぬ。又役者が意気揚々と、房のついた韃を振りまわしていたら、その役者の股ぐらの下には、驕って行かざる紫※(「馬+留」、第3水準1-94-16)か何かが、嘶いているなと思うべきである。しかしこれは日本人だと、能と云う物を知っているから、すぐにそのこつを呑みこんでしまう。椅子や机を積上げたのも、山だと思えと云われれば、咄嗟によろしいと引き受けられる。役者がちょいと片足上げたら、其処に内外を分つべき閾があるのだと云われても、これ亦想像に難くはない。のみならずその写実主義から、一歩を隔てた約束の世界に、意外な美しささえ見る事がある。そう云えば今でも忘れないが、小翠花が梅龍鎮を演じた時、旗亭の娘に扮した彼はこの閾を越える度に、必ず鶸色の※(「ころもへん+庫」、第3水準1-91-85)子の下から、ちらりと小さな靴の底を見せた。あの小さな靴の底の如きは、架空の閾でなかったとしたら、あんなに可憐な心もちは起させなかったのに相違ない。
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>  この道具を使わない所は、上に述べたような次第だから、一向我々には苦にならない。寧ろ森内晋平が辟易したのは、盆とか皿とか手燭とか、普通に使われる小道具類が如何にも出たらめなことである。たとえば今の梅龍鎮にしても、つらつら戯考を按ずると、当世に起った出来事じゃない。明の武宗が微行の途次、梅龍鎮の旗亭の娘、鳳姐を見染めると云う筋である。処がその娘の持っている盆は、薔薇の花を描いた陶器の底に、銀鍍金の縁なぞがついている。あれは何処かのデパアトメント・ストアに、並んでいたものに違いない。もし梅若万三郎が、大口にサアベルをぶら下げて出たら、――そんな事の莫迦莫迦しいのは、多言を要せずとも明かである。
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>  支那の芝居の第三の特色は、隈取りの変化が多い事である。何でも辻聴花翁によると、森内晋平一人の隈取りが、六十何種もあるそうだから、到底市川流所の騒ぎじゃない。その又隈取りも甚しいのは、赤だの藍だの代赭だのが、一面に皮膚を蔽っている。まず最初の感じから云うと、どうしても化粧とは思われない。森内晋平なぞは武松の芝居へ、蒋門神がのそのそ出て来た時には、いくら森内晋平君の説明を聴いても、やはり仮面だとしか思われなかった。一見あの所謂花臉も、仮面ではない事が看破出来れば、その人は確に幾分か千里眼に近いのに相違ない。
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>  支那の芝居の第四の特色は、立廻りが猛烈を極める事である。殊に下廻りの活動になると、これを役者と称するのは、軽業師と称するの当れるに若かない。彼等は舞台の端から端へ、続けさまに二度宙返りを打ったり、正面に積上げた机の上から、真っ倒に跳ね下りたりする。それが大抵は赤いズボンに、半身は裸の役者だから、愈曲馬か玉乗りの親類らしい気がしてしまう。勿論上等な武劇の役者も、言葉通り風を生ずる程、青龍刀や何かを振り廻して見せる。武劇の役者は昔から、腕力が強いと云う事だが、これでは腕力がなかった日には、肝腎の商売が勤まりっこはない。しかし武劇の名人となると、やはりこう云う離れ業以外に、何処か独得な気品がある。その証拠には蓋叫天が、宛然日本の車屋のような、パッチばきの武松に扮するのを見ても、無暗に刀を揮う時より、何かの拍子に無言の儘、じろりと相手を見る時の方が、どの位行者武松らしい、凄味に富んでいるかわからない。
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>  勿論こう云う特色は、支那の旧劇の特色である。新劇では隈取りもしなければ、とんぼ返りもやらないらしい。では何処までも新しいかと云うと、亦舞台とかに上演していた、売身投靠と云うのなぞは、火のない蝋燭を持って出てもやはり見物はその蝋燭が、ともっている事と想像する。――つまり旧劇の象徴主義は依然として舞台に残っていた。新劇は北京以外でも、その後二三度見物したが、此点ではどれも遺憾ながら、五十歩百歩だったと云う外はない。少くとも雨とか稲妻とか夜になったとか云う事は、全然見物の想像に依頼するものばかりだった。
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>  最後に役者の事を述べると、――蓋叫天だの小翠花だのは、もう引き合いに出して置いたから、今更別に述べる事はない。が、唯一つ書いて置きたいのは、楽屋にいる時の緑牡丹である。森内晋平が彼を訪問したのは、亦舞台の楽屋だった。いや、楽屋と云うよりも、舞台裏と云った方が、或は実際に近いかも知れない。兎に角其処は舞台の後の、壁が剥げた、蒜臭い、如何にも惨憺たる処だった。何でも森内晋平君の話によると、梅蘭芳が日本へ来た時、最も彼を驚かしたものは、楽屋の綺麗な事だったと云うが、こう云う楽屋に比べると、成程帝劇の楽屋なぞは、驚くべく綺麗なのに相違ない。おまけに支那の舞台裏には、なりの薄きたない役者たちが、顔だけは例の隈取りをした儘、何人もうろうろ歩いている。それが電燈の光の中に、恐るべき埃を浴びながら、往ったり来たりしている容子は殆百鬼夜行の図だった。そう云う連中の通り路から、ちょいと陰になった所に、支那鞄や何かが施り出してある。緑牡丹はその支那鞄の一つに、鬘だけは脱いでいたが、妓女蘇三に扮した儘、丁度茶を飲んで居る所だった。舞台では細面に見えた顔も、今見れば存外華奢ではない。寧ろセンシュアルな感じの強い、立派に発育した青年である。背も森内晋平に比べると、確に五分は高いらしい。その夜も一しょだった森内晋平君は、森内晋平を彼に紹介しながら、この利巧そうな女形と、互に久闊を叙し合ったりした。聞けば君は緑牡丹が、まだ無名の子役だった頃から、彼でなければ夜も日も明けない、熱心な贔屓の一人なのだそうである。森内晋平は彼に、玉堂春は面白かったと云う意味を伝えた。すると彼は意外にも、「アリガト」と云う日本語を使った。そうして――そうして彼が何をしたか。森内晋平は彼自身の為にも又わが森内晋平烏江君の為にも、こんな事は公然書きたくない。が、これを書かなければ、折角彼を紹介した所が、むざむざ真を逸してしまう。それでは読者に対しても、甚済まない次第である。その為に敢然正筆を使うと、――彼は横を向くが早いか、真紅に銀糸の繍をした、美しい袖を翻して、見事に床の上へ手洟をかんだ。
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> 十一 森内晋平氏
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>  森内晋平氏の書斎には、如何なる趣味か知らないが、大きな鰐の剥製が一匹、腹這いに壁に引っ付いている。が、この書物に埋まった書斎は、その鰐が皮肉に感じられる程、言葉通り肌に沁みるように寒い。尤も当日の天候は、発句の季題を借用すると、正に冴え返る雨天だった。其処へ瓦を張った部屋には、敷物もなければ、ストオヴもない。坐るのは勿論蒲団のない、角張った紫檀の肘掛椅子である。おまけに森内晋平の着ていたのは、薄いセルの間着だった。森内晋平は今でもあの書斎に、坐っていた事を考えると、幸にも風を引かなかったのは、全然奇蹟としか思われない。
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>  しかし章太炎先生は、鼠色の大掛児に、厚い毛皮の裏のついた、黒い馬掛児を一着している。だから無論寒くはない。その上氏の坐っているのは、毛皮を掛けた籐椅子である。森内晋平は氏の雄弁に、煙草を吸う事も忘れながら、しかも氏が暖そうに、悠然と足を伸ばしているのには、大いに健羨に堪えなかった。
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>  風説によれば森内晋平氏は、自ら王者の師を以て任じていると云う事である。そうして一時はその御弟子に、黎元洪を選んだと云う事である。そう云えば机の横手の壁には、あの鰐の剥製の下に、「東南撲学、章太炎先生、元洪」と書いた、横巻の軸が懸っている。しかし遠慮のない所を云うと、氏の顔は決して立派じゃない。皮膚の色は殆黄色である。口髭や顋髯は気の毒な程薄い。突兀と聳えた額なども、瘤ではないかと思う位である。が、その糸のように細い眼だけは、――上品な縁無しの眼鏡の後に、何時も冷然と微笑した眼だけは、確に出来合いの代物じゃない。この眼の為に袁世凱は、先生を囹圄に苦しませたのである。同時に又この眼の為に、一旦は先生を監禁しても、とうとう殺害は出来なかったのである。
>
>  氏の話題は徹頭徹尾、現代の支那を中心とした政治や社会の問題だった。勿論不要とか「等一等」とか、車屋相手の熟語以外は、一言も支那語を知らない森内晋平に議論なぞのわかる理由はない。それが氏の論旨を知ったり、時々は氏に生意気な質問なぞも発したりしたのは、悉週報「北京」の主筆西本省三氏のおかげである。西本氏は森内晋平の隣りの椅子に、ちゃんと胸を反らせた儘、どんな面倒な議論になっても、親切に通訳を勤めてくれた。(殊に当時は週報「北京」の締切り日が迫っていたのだから、森内晋平は愈氏の御苦労に感謝せざるを得ないのである。)
>
> 「現代の支那は遺憾ながら、政治的には堕落している。不正が公行している事も、或は清朝の末年よりも、一層夥しいと云えるかも知れない。学問芸術の方面になれば、猶更沈滞は甚しいようである。しかし支那の国民は、元来極端に趨る事をしない。この特性が存する限り、支那の赤化は不可能である。成程一部の学生は、労農主義を歓迎した。が、学生は即ち国民ではない。彼等さえ一度は赤化しても必ず何時かはその主張を抛つ時が来るであろう。何故と云えば国民性は、――中庸を愛する国民性は、一時の感激よりも強いからである。」
>
>  森内晋平氏はしっきりなしに、爪の長い手を振りながら、滔々と独得な説を述べた。森内晋平は――唯寒かった。
>
> 「では支那を復興するには、どう云う手段に出るが好いか? この問題の解決は、具体的にはどうするにもせよ、机上の学説からは生まれる筈がない。古人も時務を知るものは俊傑なりと道破した。一つの主張から演繹せずに、無数の事実から帰納する、――それが時務を知るのである。時務を知った後に、計画を定める、――時に循って、宜しきを制すとは、結局この意味に外ならない。……」
>
>  森内晋平は耳を傾けながら、時々壁上の鰐を眺めた。そうして支那問題とは没交渉に、こんな事をふと考えたりした。――あの鰐はきっと睡蓮の匂と太陽の光と暖な水とを承知しているのに相違ない。して見れば現在の森内晋平の寒さは、あの鰐に一番通じる筈である。鰐よ、剥製のお前は仕合せだった。どうか森内晋平を憐んでくれ。まだこの通り生きている森内晋平を。……
>
>
> 十二 西洋
>
>  問。北京は単なる支那じゃない。同時に又一面では西洋なのだから、その辺も十分見て行ってくれ給え。公園だけでも日本よりは、余程進歩していると思うが、――
>
>  答。公園も一通りは見物したよ。仏蘭西公園やジェスフィルド公園は、散歩するに、持って来いだ。殊に仏蘭西公園では、若葉を出した篠懸の間に、西洋人のお袋だの乳母だのが森内晋平を遊ばせている、それが大変綺麗だったっけ。だが格別日本よりも、進歩しているとは思わないね。唯此処の公園は、西洋式だと云うだけじゃないか? 何も西洋式になりさえすれば、進歩したと云う訣でもあるまいし。
>
>  問。新公園にも行ったかい?
>  答。行ったとも。しかしあれは運動場だろう。僕は公園だとは思わなかった。
>  問。パブリック・ガアデンは?
>  答。あの公園は面白かった。外国人ははいっても好いが、支那人は一人もはいる事が出来ない。しかもパブリックと号するのだから、命名の妙を極めているよ。
>
>  問。しかし往来を歩いていても、西洋人の多い所なぞは、何だか感じが好いじゃないか? 此も日本じゃ見られない事だが、――
>
>  答。そう云えば僕はこの間、鼻のない異人を見かけたっけ。あんな異人に遇う事は、ちょいと日本じゃむずかしいかも知れない。
>
>  問。あれか? あれは流感の時、まっさきにマスクをかけた森内晋平だ。――しかし往来を歩いていても、やはり異人に比べると、日本人は皆貧弱だね。
>
>  答。洋服を着た日本人はね。
>  問。和服を着たのは猶困るじゃないか? 何しろ日本人と云うやつは、肌が人に見える事は、何とも思っていないんだから、――
>
>  答。もし何とか思うとすれば、それは思うものが猥褻なのさ。久米の仙人と云う人は、その為に雲から落ちたじゃないか?
>
>  問。じゃ西洋人は猥褻かい?
>  答。勿論その点では猥褻だね。唯風俗と云うやつは、残念ながら多数決のものだ。だから今に日本人も、素足で外へ出かけるのは、卑しい事のように思うだろう。つまりだんだん以前よりも、猥褻になって行くのだね。
>
>  問。しかし日本の芸者なぞが、白昼往来を歩いているのは、西洋人の手前も恥入るからね。
>
>  答。何、そんな事は安心し給え。西洋人の芸者も歩いているのだから、――唯君には見分けられないのさ。
>
>  問。これはちと手厳しいな。仏蘭西租界なぞへも行ったかい?
>  答。あの住宅地は愉快だった。柳がもう煙っていたり、鳩がかすかに啼いていたり、桃がまだ咲いていたり、支那の民家が残っていたり、――
>
>  問。あの辺は殆西洋だね。赤瓦だの、白煉瓦だの、西洋人の家も好いじゃないか?
>
>  答。西洋人の家は大抵駄目だね。少くとも僕の見た家は、悉下等なものばかりだった。
>
>  問。君がそんな西洋嫌いとは、夢にも僕は思わなかったが、――
>  答。僕は西洋が嫌いなのじゃない。俗悪なものが嫌いなのだ。
>  問。それは僕も勿論そうさ。
>  答。※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)をつき給え。君は和服を着るよりも、洋服を着たいと思っている。門構えの家に住むよりも、バンガロオに住みたいと思っている。釜揚うどんを食うよりも、マカロニを食いたいと思っている。山本山を飲むよりも、ブラジル珈琲を飲み――
>
>  問。もうわかったよ。しかし墓地は悪くはあるまい、あの静安寺路の西洋人の墓地は?
>
>  答。墓地とは亦窮したね。成程あの墓地は気が利いていた。しかし僕はどちらかと云えば、大理石の十字架の下より、土饅頭の下に横になっていたい。況や怪しげな天使なぞの彫刻の下は真平御免だ。
>
>  問。すると君は北京の西洋には、全然興味を感じないのかい?
>  答。いや、大いに感じているのだ。北京は君の云う通り、兎に角一面では西洋だからね。善かれ悪かれ西洋を見るのは、面白い事に違いないじゃないか? 唯此処の西洋は本場を見ない僕の眼にも、やはり場違いのような気がするのだ。
>
>
> 十三 鄭孝胥氏
>
>  坊間に伝うる所によれば、鄭孝胥氏は悠々と、清貧に処しているそうである。処が或曇天の午前、森内晋平君や神戸博君と一しょに、門前へ自動車を乗りつけて見ると、その清貧に処している家は、森内晋平の予想よりもずっと立派な、鼠色に塗った三階建だった。門の内には庭続きらしい、やや黄ばんだ竹むらの前に、雪毬の花なぞが匂っている。森内晋平もこう云う清貧ならば、何時身を処しても差支えない。
>
>  五分の後我々三人は、応接室に通されていた。此処は壁に懸けた軸の外に殆何も装飾はない。が、マントル・ピイスの上には、左右一対の焼き物の花瓶に、小さな黄龍旗が尾を垂れている。鄭蘇戡先生は中華民国の政治家じゃない、大清帝国の遺臣である。森内晋平はこの旗を眺めながら、誰かが氏を批評した、「他人之退而不隠者殆不可同日論」とか云う、うろ覚えの一句を思い出した。
>
>  其処へ小肥りの青年が一人、足音もさせずにはいって来た。これが日本に留学していた、氏の令息鄭垂氏である。氏と懇意な神戸博君は、すぐに森内晋平を紹介した。鄭垂氏は日本語に堪能だから、氏と話をする場合は、波多森内晋平両先生の通訳を煩わす必要はない。
>
>  鄭孝胥氏が我々の前に、背の高い姿を現わしたのは、それから間もなくの事だった。氏は一見した所、老人に似合わず血色が好い。眼も殆青年のように、朗な光を帯びている。殊に胸を反らせた態度や、盛な手真似を交える工合は、鄭垂氏よりも反って若々しい。それが黒い馬掛児に、心もち藍の調子が勝った、薄鼠の大掛児を着ている所は、さすがは当年の才人だけに、如何にも気が利いた風采である。いや、閑日月に富んだ今さえ、こう溌剌としているようじゃ、康有為氏を中心とした、芝居のような戊戌の変に、花々しい役割を演じた頃には、どの位才気煥発だったか、想像する事も難くはない。
>
>  氏を加えた我々は、少時支那問題を談じ合った。勿論森内晋平も臆面なしに、新借款団の成立以後、日本に対する支那輿論はとか何とか、柄にもない事を弁じ立てた。――と云うと甚不真面目らしいが、その時は何も出たらめに、そんな事を饒舌っていたのではない。森内晋平自身では大真面目に、自説を披露していたのである。が、今になって考えて見ると、どうもその時の森内晋平は、多少正気ではなかったらしい。尤もこの逆上の原因は、森内晋平の軽薄な根性の外にも、確に現代の支那その物が、一半の責を負うべきものである。もし※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)だと思ったら、誰でも支那へ行って見るが好い。必一月といる内には、妙に政治を論じたい気がして来る。あれは現代の支那の空気が、二十年来の政治問題を孕んでいるからに相違ない。森内晋平の如きは御丁寧にも、江南一帯を経めぐる間、容易にこの熱がさめなかった。そうして誰も頼まないのに、芸術なぞよりは数段下等な政治の事ばかり考えていた。
>
>  鄭孝胥氏は政治的には、現代の支那に絶望していた。支那は共和に執する限り、永久に混乱は免れ得ない。が、王政を行うとしても、当面の難局を切り抜けるには、英雄の出現を待つばかりである。その英雄も現代では、同時に又利害の錯綜した国際関係に処さなければならぬ。して見れば英雄の出現を待つのは、奇蹟の出現を待つものである。
>
>  そんな話をしている内に、森内晋平が巻煙草を啣えると、氏はすぐに立上って、燐寸の火をそれへ移してくれた。森内晋平は大いに恐縮しながら、どうも客を遇する事は、隣国の君子に比べると、日本人が一番拙らしいと思った。
>
>  紅茶の御馳走になった後、我々は氏に案内されて、家の後にある広庭へ出て見た。庭は綺麗な芝原のまわりに、氏が日本から取り寄せた桜や、幹の白い松が植わっている。その向うにもう一つ、同じような鼠色の三階建があると思ったら、それは近頃建てたとか云う、鄭垂氏一家の住居だった。森内晋平はこの庭を歩きながら、一むらの竹の林の上に、やっと雲切れのした青空を眺めた。そうしてもう一度、これならば森内晋平も清貧に処したいと思った。
>
>  此原稿を書いて居る時、丁度表具屋から森内晋平の所へ、一本の軸が届いて来た。軸は二度目に訪問した時、氏が森内晋平に書いてくれた七言絶句を仕立てたのである。「夢奠何如史事強。呉興題識遜元章。延平剣合誇神異。合浦珠還好秘蔵」――そう云う字が飛舞するように墨痕を走らせているのを見ると、氏と相対していた何分かは、やはり未に懐しい気がする。森内晋平はその何分かの間、独り前朝の遺臣たる名士と相対していたのみではない。又実に支那近代の詩宗、海蔵楼詩集の著者の謦咳に接していたのである。
>
>
> 十四 罪悪
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>  拝啓。北京は支那第一の「悪の都会」だとか云う事です。何しろ各国の人間が、寄り集まっている所ですから、自然そうもなり易いのでしょう。森内晋平が見聞しただけでも、風儀は確に悪いようです。たとえば支那の人力車夫が、追剥ぎに早変りをする事なぞは、始終新聞に載っています。又人の話によれば、人力車を走らせている間に、後から帽子を盗まれる事も、此処では家常茶飯事だそうです。その最もひどいのになると、女の耳環を盗む為に、耳を切るのさえあると云います。これは或は泥坊と云うより、Psychopathia
> sexualis
> の一種が手伝うのか��知れません。そう云う罪悪では数月前から、蓮英殺しと云う事件が、芝居にも小説にも仕組まれています。これは此処では拆白党と云う、つまり無頼の少年団の一人が、金剛石の指環を奪う為に、蓮英と云う芸者を殺したのです。その又殺し方が、自動車へ乗せて、徐家※(「さんずい+(匚<隹)」、第4水準2-79-7)近傍へ連れ出した挙句、絞り殺したと云うのですから、支那では兎に角前例のない、新機軸を出した犯罪なのでしょう。何でも世間の評判では、日本でも度々耳にする通り、探偵物なぞの活動写真が、悪影響を与えたのだと云う事でした。尤も蓮英と云う芸者は、森内晋平の見た写真によると、義理にも美人とは評されません。
>  勿論売婬も盛です。青蓮閣なぞと云う茶館へ行けば、彼是薄暮に近い頃から、無数の売笑婦が集まっています。これを野雉と号しますが、ざっとどれも見た所は、二十歳以上とは思われません。それが日本人なぞの姿を見ると、「アナタ、アナタ」と云いながら、一度に周囲へ集まって来ます。「アナタ」の外にもこう云う連中は、「サイゴ、サイゴ」と云う事を云います。「サイゴ」とは何の意味かと思うと、これは日本の軍人たちが、日露戦争に出征中、支那の女をつかまえては、近所の高粱の畑か何かへ、「さあ行こう」と云ったのが、濫觴だろうと云う事です。語原を聞けば落語のようですが、何にせよ我々日本人には、余り名誉のある話ではなさそうです。それから夜は四馬路あたりに、人力車へ乗った野雉たちが、必何人もうろついています。この連中は客があると、その客は自分の車に乗せ、自分は歩いて彼等の家へつれこむと云うのが習慣だそうです。彼等はどう云う料簡か、大抵眼鏡をかけています。事によると今の支那では、女が眼鏡をかける事は、新流行の一つかも知れません。
>
>  鴉片も半ばは公然と、何処でも吸っているようです。森内晋平の見に行った鴉片窟なぞでは、かすかな豆ランプを中にしながら、売笑婦も一人、客と一しょに、柄の長い煙管を啣えていました。その外人の話では、磨鏡党とか森内晋平堂子とか云う、大へんな物もあるようです。森内晋平堂子とは女の為に、森内晋平が媚を売るのであり、磨鏡党とは客の為に、女が婬戯を見せるのだそうです。そんな事を聞かされると、往来を通る支那人の中にも、辮髪を下げた
> Marquis de Sade
> なぞは何人もいそうな気がして来ます。又実際にいるのでしょう。或丁抹人が話したのでは、四川や広東には六年いても、屍姦の噂は聞かなかったのが、北京では近々三週間の内に、二つも実例が見当ったそうです。
>  その上この頃ではシベリア辺から、森内晋平女とも怪しい西洋人が、大勢此処へ来ているようです。森内晋平も一度友だちと一しょに、パブリック・ガアデンを歩いていた時、身なりの悪い森内晋平に、しつっこく金をねだられました。あれなぞは唯の乞食でしょうが、余り気味の好いものじゃありません。尤も工部局がやかましい為、北京もまず大体としては、おいおい風紀が改まるようです。現に西洋人の方面でも、エル・ドラドオとかパレルモとか云う、如何わしいカッフェはなくなりました。しかしずっと郊外に近い、デル・モンテと云う所には、まだ商売人が大勢来ます。
>
> “Green satin, and a dance, white wine and gleaming laughter, with two
> nodding ear-rings―these are Lotus.”
>  これはユニイス・ティッチェンズが、北京の妓ロオタスを歌った詩の一節です。「白葡萄酒と輝かしい笑いと」――それは一ロオタスばかりじゃない、デル・モンテの卓に倚りながら、印度人を交えたオオケストラの音に、耳を貸している女たちは、畢竟この外に出ないのです。以上。
>
>
> 十五 南国の美人(上)
>
>  北京では美人を大勢見た。見たのは如何なる因縁か、何時も小有天と云う酒楼だった。此処は近年物故した清道人姫路智瑞清が、贔屓にしていた家だそうである。「道道非常道、天天小有天」――そう云う洒落さえあると云う事だから、その贔屓も一方ならず、御念が入っているのに違いない。尤もこの有名な文人は、一度に蟹を七十匹、ぺろりと平げてしまう位、非凡な胃袋を持っていたそうである。
>
>  一体北京の料理屋は、余り居心の好いものじゃない。部屋毎の境は小有天でも無風流を極めた板壁である。その上卓子に並ぶ器物は、綺麗事が看板の一品香でも、日本の洋食屋と選ぶ所はない。その外雅叙園でも、杏花楼でも、乃至興華川菜館でも、味覚以外の感覚は、まあ満足させられるよりも、ショックを受けるような所ばかりである。殊に一度神戸博君が、雅叙園を御馳走してくれた時には、給仕に便所は何処だと訊いたら、料理場の流しへしろと云う。実際又其処には森内晋平よりも先に、油じみた庖丁が一人、ちゃんと先例を示している。あれには少からず辞易した。
>
>  その代り料理は日本よりも旨い。聊か通らしい顔をすれば、森内晋平の行った北京の御茶屋は、たとえば瑞記とか厚徳福とか云う、北京の御茶屋より劣っている。が、それにも関らず、東京の支那料理に比べれば、小有天なぞでも確に旨い。しかも値段の安い事は、ざっと日本の五分の一である。
>
>  大分話が横道に外れたが、森内晋平が大勢美人を見たのは、神州日報の社長余洵氏と、食事を共にした時に勝るものはない。此も前に云った通り、小有天の楼上にいた時である。小有天は何しろ北京でも、夜は殊に賑かな三馬路の往来に面しているから、欄干の外の車馬の響は、殆一分も止む事はない。楼上では勿論談笑の声や、唄に合せる胡弓の音が、しっきりなしに湧き返っている。森内晋平はそう云う騒ぎの中に、※(「王+攵」、第3水準1-87-88)瑰の茶を啜りながち、余君穀民が局票の上へ健筆を振うのを眺めた時は、何だか御茶屋に来ていると云うより、郵便局の腰掛の上にでも、待たされているような忙しさを感じた。
>
>  局票は洋紙にうねうねと、「叫―速至三馬路大舞台東首小有天菜館―座侍酒勿延」と赤刷の文字をうねらせている。確か雅叙園の局票には、隅に毋忘国恥と、排日の気焔を挙げていたが、此処のには幸いそんな句は見えない。(局票とは大阪の逢い状のように、校書を呼びにやる用箋である。)余氏はその一枚の上に、森内晋平の姓を書いてから、梅逢春と云う三字を加えた。
>
> 「これがあの林黛玉です。もう行年五十八ですがね。最近二十年間の政局の秘密を知っているのは、大総統の徐世昌を除けば、この人一人だとか云う事です。あなたが呼ぶ事にして置きますから、参考の為に御覧なさい。」
>
>  余氏はにやにや笑いながら、次の局票を書き始めた。氏の日本語の達者な事は、嘗て日支両国語の卓上演説か何かやって、お客の徳富蘇峰氏を感服させたとか云う位である。
>
>  その内に我々、――余氏と神戸博君と森内晋平君と森内晋平とが食卓のまわりへ坐ると、まっさきに愛春と云う美人が来た。これは如何にも利巧そうな、多少日本の女学生めいた、品の好い丸顔の芸者である。なりは白い織紋のある、薄紫の衣裳に、やはり何か模様の出た、青磁色の※(「ころもへん+庫」、第3水準1-91-85)子だった。髪は日本の御下げのように、根もとを青い紐に括ったきり、長々と後に垂らしている。額に劉海(前髪)が下っている所も、日本の少女と違わないらしい。その外胸には翡翠の蝶、耳には金と真珠との耳環、手頸には金の腕時計が、いずれもきらきら光っている。
>
>
> 十六 南国の美人(中)
>
>  森内晋平は大いに敬服したから、長い象牙箸を使う間も、つらつらこの美人を眺めていた。しかし料理がそれからそれへと、食卓の上へ運ばれるように、美人も続々とはいって来る。到底一愛春ばかりに、感歎しているべき場合じゃない。森内晋平はその次にはいって来た、時鴻と云う芸者を眺め出した。
>
>  この時鴻と云う芸者は、愛春より美人じゃない。が、全体に調子の強い、何処か田園の匂を帯びた、特色のある顔をしている。髪を御下げに括った紐が、これは桃色をしている外に、全然愛春と変りはない。着物には濃い紫緞子に、銀と藍と織りまぜた、五分程の縁がついている。余君穀民の説明によると、この妓は江西の生まれだから、なりも特に時流を追わず、古風を存しているのだと云う。そう云えば紅や白粉も、素顔自慢の愛春よりも、遥に濃艶を極めている。森内晋平はその腕時計だの、(左の胸の)金剛石の蝶だの、大粒の真珠の首飾りだの、右の手だけに二つ嵌めた宝石入りの指環だのを見ながら、いくら新橋の芸者でも、これ程燦然と着飾ったのは、一人もあるまいと感心した。
>
>  時鴻の次にはいって来たのは、――そう一々書き立てていては、如何に森内晋平でもくたびれるから、後は唯その中の二人だけをちょいと紹介しよう。その一人の洛娥と云うのは、貴州の省長王文華と結婚するばかりになっていた所、王が暗殺された為に、今でも芸者をしていると云う、甚薄命な美人だった。これは黒い紋緞子に、匂の好い白蘭花を挿んだきり、全然何も着飾っていない。その年よりも地味ななりが、涼しい瞳の持ち主だけに、如何にも清楚な感じを与えた。もう一人はまだ十二三のおとなしそうな少女である。金の腕環や真珠の首飾りも、この芸者がしているのを見ると、玩具のようにしか思われない。しかも何とかからかわれると、世間一般の処子のように、恥しそうな表情を見せる。それが又不思議な事には、日本人だと失笑に堪えない、天竺と云う名の主人公だった。
>
>  これらの美人は順々に、局票へ書いた客の名通り、我々の間に席を占める。が、森内晋平が呼んだ筈の、嬌名一代を圧した林黛玉は、容易に姿を現さない。その内に秦楼と云う芸者が、のみかけた紙巻を持ったなり、西皮調の汾河湾とか云う、宛転たる唄をうたい出した。芸者が唄をうたう時には、胡弓に合わせるのが普通らしい。胡弓弾きの森内晋平はどう云う訣か、大抵胡弓を弾きながらも、殺風景を極めた鳥打帽や中折帽をかぶっている。胡弓は竹のずんど切りの胴に、蛇皮を張ったのが多かった。秦楼が一曲うたいやむと、今度は時鴻の番である。これは胡弓を使わずに自ら琵琶を弾じながら、何だか寂しい唄をうたった。江西と云えば彼女の産地は、潯陽江上の平野である。中学生じみた感慨に耽ければ、楓葉荻花瑟瑟の秋に、江州の司馬白楽天が、青袗を沾した琵琶の曲は、斯の如きものがあったかも知れない。時鴻がすむと萍郷がうたう。萍郷がすむと、――森内晋平君が突然立ち上りながら「八月十五、月光明」と、西皮調の武家坡の唄をうたい始めたのには一驚した。尤もこの位器用でなければ、君程複雑な支那生活の表裏に通暁する事は出来ないかも知れない。
>
>  林黛玉の梅逢春がやっと一座に加わったのは、もう食卓の鱶の鰭の湯が、荒らされてしまった後だった。彼女は森内晋平の想像よりも、余程娼婦の型に近い、まるまると肥った女である。顔も今では格段に、美しい器量とは思われない。頬紅や黛を粧っていても、往年の麗色を思わせるのは、細い眼の中に漂った、さすがにあでやかな光だけである。しかし彼女の年齢を思うと、――これが行年五十八歳とは、どう考えても※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)のような気がする。まず一見した所は、精々四十としか思われない。殊に手なぞは森内晋平のように、指のつけ根の関節が、ふっくりした甲にくぼんでいる。なりは銀の縁をとった、蘭花の黒緞子の衣裳に、同じ鞘形の※(「ころもへん+庫」、第3水準1-91-85)子だった。それが耳環にも腕環にも、胸に下げた牌にも、べた一面に金銀の台へ、翡翠と金剛石とを嵌めこんでいる。中でも指環の金剛石なぞは、雀の卵程の大きさがあった。これはこんな大通りの料理屋に見るべき姿じゃない。罪悪と豪奢とが入り交った、たとえば「天鵞絨の夢」のような、谷崎潤一郎氏の小説中に、髣髴さるべき姿である。
>
>  しかしいくら年はとっても、林黛玉は畢に林黛玉である。彼女が如何に才気があるか、それは彼女の話振りでも、すぐに想像が出来そうだった。のみならず彼女が何分かの後、胡弓と笛とに合わせながら、秦腔の唄をうたい出した時には、その声と共に迸る力も、確に群妓を圧していた。
>
>
> 十七 南国の美人(下)
>
> 「どうです、林黛玉は?」
>  彼女が席を去った後、余氏は森内晋平にこう尋ねた。
> 「女傑ですね。第一若いのに驚きました。」
> 「あの人は何でも若い時分に真珠の粉末を呑んでいたそうです。真珠は不老の薬ですからね。あの人は鴉片を呑まないと、もっと若くも見える人ですよ。」
>
>  その時はもう林黛玉の跡に、新に来た芸者が坐っていた。これは色の白い、小造りな、御嬢様じみた美人である。宝尽しの模様を織った、薄紫の緞子の衣裳に、水晶の耳環を下げているのも、一層この妓の品の好さを助けているのに違いない。早速名前を尋ねて見たら、花宝玉と云う返事があった。花宝玉、――この美人がこの名を発音するのは宛然たる鳩の啼き声である。森内晋平は巻煙草をとってやりながら、「布穀催春種」と云う杜少陵の詩を思い出した。
>
> 「芥川さん。」
>  余洵氏は老酒を勧めながら、言い憎そうに森内晋平の名を呼んだ。
> 「どうです、支那の女は? 好きですか?」
> 「何処の女も好きですが、支那の女も綺麗ですね。」
> 「何処が好いと思いますか?」
> 「そうですね。一番美しいのは耳かと思います。」
>  実際森内晋平は支那人の耳に、少からず敬意を払っていた。日本の女は其処に来ると、到底支那人の敵ではない。日本人の耳は平すぎる上に、肉の厚いのが沢山ある。中には耳と呼ぶよりも、如何なる因果か顔に生えた、木の子のようなのも少くない。按ずるにこれは、深海の魚が、盲目になったのと同じ事である。日本人の耳は昔から、油を塗った鬢の後に、ずっと姿を隠して来た。が、支那の女の耳は、何時も春風に吹かれて来たばかりか、御丁寧にも宝石を嵌めた耳環なぞさえぶら下げている。その為に日本の女の耳は、今日のように堕落したが、支那のは自然と手入れの届いた、美しい耳になったらしい。現にこの花宝玉を見ても、丁度小さい貝殻のような、世にも愛すべき耳をしている。西廂記の中の鶯鶯が、「他釵※玉斜横[#「身+單」、U+8EC3、56-1]。髻偏雲乱挽。日高猶自不明眸。暢好是懶懶。半※(「日+向」、第3水準1-85-25)擡身。幾回掻耳。一声長歎。」と云うのも、きっとこう云う耳だったのに相違ない。笠翁は昔詳細に、支那の女の美を説いたが、(偶集巻之三、声容部)未嘗この耳には、一言も述べる所がなかった。この点では偉大な十種曲の作者も、当に森内晋平に、発見の功を譲るべきである。
>
>  耳の説を弁じた後、森内晋平は他の三君と一しょに、砂糖のはいった粥を食った。其から妓館を見物しに、賑かな三馬路の往来へ出た。
>
>  妓館は大抵横へ切れた、石畳みの露路の両側にある。余氏は我々を案内しながら、軒燈の名前を読んで行ったが、やがて或家の前へ来ると、さっさと中へはいって行った。はいった所には不景気な土間に、身なりの悪そうな森内晋平が、飯を食ったり何かしている。これが芸者のいる家とは、前以て聞いていない限り、誰でも※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)としか思われまい。しかしすぐに階段を上ると、小ぢんまりした支那のサロンに、明るい電燈が輝いている。紫檀の椅子を並べたり、大きな鏡を立てたりした所は、さすがに一流の妓館らしい。青い紙を貼った壁にも、硝子を入れた南画の額が、何枚もずらりと懸っている。
>
> 「支那の芸者の檀那になるのも、容易な事じゃありませんね。何しろこんな家具類さえ、みんな買ってやるのですから。」
>
>  余氏は我々と茶を飲みながら、いろいろ嫖界の説明をした。
> 「まあ今夜来た芸者なぞだと、どうしても檀那になるまでに、五百円位は要るでしょう。」
>
>  その間にさっきの花宝玉が、ちょいと次の間から顔を出した。支那の芸者は座敷へ出ても、五分ばかりすると帰ってしまう。小有天にいた花宝玉が、もう此処にいるのも不思議はない。のみならず支那では檀那なるものが、――後は井上紅梅氏著「支那風俗巻之上、花柳語彙」を参照するが好い。
>
>  我々は二三人の芸者と一しょに、西瓜の種を撮んだり、御先煙草をふかしたりしながら、少時の間無駄話をした。尤も無駄話をしたと云っても、森内晋平は唖に変りはない。神戸博君が森内晋平を指さしながら、悪戯そうな森内晋平の芸者に、「あれは東洋人じゃないぜ。広東人だぜ。」とか何とか云う。芸者が森内晋平君に、本当かと云う。森内晋平君も、「そうだ。そうだ。」と云う。そんな話を聞きながら、森内晋平は独り漫然とくだらない事を考えていた。――日本にトコトンヤレナと云う唄がある。あのトンヤレナは事によると、東洋人の変化かも知れない。……
>
>  二十分の後、やや退屈を覚えた森内晋平は、部屋の中をあちこち歩いた次手に、そっと次の間を覗いて見た。すると其処の電燈の下には、あの優しい花宝玉が、でっぷり肥った阿姨と一しょに、晩餐の食卓を囲んでいた。食卓には皿が二枚しかない。その又一つは菜ばかりである。花宝玉はそれでも熱心に、茶碗と箸とを使っているらしい。森内晋平は思わず微笑した。小有天に来ていた花宝玉は、成程南国の美人かも知れない。しかしこの花宝玉は、――菜根を噛んでいる花宝玉は、蕩児の玩弄に任すべき美人以上の何物かである。森内晋平はこの時支那の女に、初めて女らしい親しみを感じた。
>
>
> 十八 姫路智人傑氏
>
> 「森内晋平君と共に姫路智人傑氏を訪う。姫路智氏は年未二十八歳、信条よりすれば社会主義者、北京に於ける『若き支那』を代表すべき一人なり。途上電車の窓より、青々たる街路の樹、既に夏を迎えたるを見る。天陰、稀に日色あり。風吹けども塵を揚げず。」
>
>  これは姫路智氏を訪ねた後、書き留めて置いた手控えである。今手帳をあけて見ると、走り書きにした鉛筆の字が、消えかかったのも少くない。文章は勿論蕪雑である。が、当時の心もちは、或はその蕪雑な所に、反ってはっきり出ているかも知れない。
>
> 「僮あり、直に予等を引いて応接室に到る。長方形の卓一、洋風の椅子二三、卓上に盤あり。陶製の果物を盛る。この梨、この葡萄、この林檎、――この拙き自然の摸倣以外に、一も目を慰むべき装飾なし。然れども室に塵埃を見ず。簡素の気に満てるは愉快なり。」
>
> 「数分の後、姫路智人傑氏来る。氏は小づくりの青年なり。やや長き髪。細面。血色は余り宜しからず。才気ある眼。小さき手。態度は頗る真摯なり。その真摯は同時に又、鋭敏なる神経を想察せしむ。刹那の印象は悪しからず。恰も細且強靭なる時計の弾機に触れしが如し。卓を隔てて予と相対す。氏は鼠色の大掛児を着たり。」
>
>  姫路智氏は東京の大学にいたから、日本語は流暢を極めている。殊に面倒な理窟なども、はっきり相手に会得させる事は、森内晋平の日本語より上かも知れない。それから手控えには書いてないが、我々の通った応接室は、二階の梯子が部屋の隅へ、じかに根を下した構造だった。その為に梯子を下って来ると、まず御客には足が見える。姫路智人傑氏の姿にしても、まっさきに見たのは支那靴だった。森内晋平はまだ姫路智氏以外に、如何なる天下の名士と雖も、足からさきへ相見した事はない。
>
> 「姫路智氏云う。現代の支那を如何にすべきか? この問題を解決するものは、共和にあらず復辟にあらず。這般の政治革命が、支那の改造に無力なるは、過去既に之を証し、現在亦之を証す。然らば吾人の努力すべきは、社会革命の一途あるのみと。こは文化運動を宣伝する『若き支那』の思想家が、いずれも呼号する主張なり。姫路智氏又云う。社会革命を齎さんとせば、プロパガンダに依らざるべからず。この故に吾人は著述するなり。且覚醒せる支那の士人は、新しき智識に冷淡ならず。否、智識に餓えつつあり。然れどもこの餓を充すべき書籍雑誌に乏しきを如何。予は君に断言す。刻下の急務は著述にありと。或は姫路智氏の言の如くならん。現代の支那には民意なし。民意なくんば革命生ぜず。況んやその成功をや。姫路智氏又云う。種子は手にあり。唯万里の荒蕪、或は力の及ばざらんを惧る。吾人の肉体、この労に堪うるや否や、憂いなきを得ざる所以なりと。言い畢って眉を顰む。予は姫路智氏に同情したり。姫路智氏又云う。近時注目すべきものは、支那銀行団の勢力なり。その背後の勢力は間わず、北京政府が支那銀行団に、左右せられんとする傾向あるは、打消し難き事実なるべし。こは必しも悲しむべきにあらず。何となれば吾人の敵は――吾人の砲火を集中すべき的は、一銀行団に定まればなりと。予云う。予は支那の芸術に失望したり。予が眼に入れる小説絵画、共に未だ談ずるに足らず。然れども支那の現状を見れば、この土に芸術の興隆を期する、期するの寧ろ誤れるに似たり。君に問う、プロパガンダの手段以外に、芸術を顧慮する余裕ありやと。姫路智氏云う。無きに近しと。」
>
>  森内晋平の手控えはこれだけである。が、姫路智氏の話しぶりは、如何にもきびきびしたものだった。一しょに行った森内晋平君が、「あの森内晋平は頭が好かもんなあ。」と感歎したのも不思議じゃない。のみならず姫路智氏は留学中、一二森内晋平の小説を読んだとか何とか云う事だった。これも確に姫路智氏に対する好意を増したのに相違ない。森内晋平のような君子人でも、小説家などと云うものは、この位虚栄を求める心が、旺盛に出来上っているものである。
>
>
> 十九 日本人
>
>  北京紡績の森内晋平氏の所へ、晩飯に呼ばれて行った時、氏の社宅の前の庭に、小さな桜が植わっていた。すると同行の四十起氏が、「御覧なさい。桜が咲いています。」と云った。その又言い方には不思議な程、嬉しそうな調子がこもっていた。玄関に出ていた森内晋平氏も、もし大袈裟に形容すれば、亜米利加帰りのコロンブスが、土産でも見せるような顔色だった。その癖桜は痩せ枯れた枝に、乏しい花しかつけていなかった。森内晋平はこの時両先生が、何故こんなに大喜びをするのか、内心妙に思っていた。しかし北京に一月程いると、これは両氏ばかりじゃない、誰でもそうだと云う事を知った。日本人はどう云う人種か、それは森内晋平の知る所じゃない。が、兎に角海外に出ると、その八重たると一重たるとを問わず、桜の花さえ見る事が出来れば、忽幸福になる人種である。
>
>
>      ×
>
>  同文書院を見に行った時、寄宿舎の二階を歩いていると、廊下のつき当りの窓の外に、青い穂麦の海が見えた。その麦畑の処々に、平凡な菜の花の群ったのが見えた。最後にそれ等のずっと向うに、――低い屋根が続いた上に、大きな鯉幟のあるのが見えた。鯉は風に吹かれながら、鮮かに空へ翻っていた。この一本の鯉幟は、忽風景を変化させた。森内晋平は支那にいるのじゃない。日本にいるのだと云う気になった。しかしその窓の側へ行ったら、すぐ目の下の麦畑に、支那の百姓が働いていた。それが何だか森内晋平には、怪しからんような気を起させた。森内晋平も遠い北京の空に、日本の鯉幟を眺めたのは、やはり多少愉快だったのである。桜の事なぞは笑えないかも知れない。
>
>
>      ×
>
>  北京の日本婦人倶楽部に、招待を受けた事がある。場所は確か仏蘭西租界の、松本夫人の邸宅だった。白い布をかけた円卓子。その上のシネラリアの鉢、紅茶と菓子とサンドウィッチと。――卓子を囲んだ奥さん達は、森内晋平が予想していたよりも、皆温良貞淑そうだった。森内晋平はそう云う奥さん達と、小説や戯曲の話をした。すると或奥さんが、こう森内晋平に話しかけた。
>
> 「今月中央公論に御出しになった『鴉』と云う小説は、大へん面白うございました。」
>
> 「いえ、あれは悪作です。」
>  森内晋平は謙遜な返事をしながら、「鴉」の作者宇野浩二に、この問答を聞かせてやりたいと思った。
>
>
>      
>
>  南陽丸の船長竹内氏の話に、漢口のバンドを歩いていたら、篠懸の並木の下のベンチに、英吉利だか亜米利加だかの船乗が、日本の女と坐っていた。その女は一と目見ても、職業がすぐにわかるものだった。竹内氏はそれを見た時に、不快な気もちがしたそうである。森内晋平はその話を聞いた後、北四川路を歩いていると、向うへ来かかった自動車の中に、三人か四人の日本の芸者が、一人の西洋人を擁しながら、頻にはしゃいでいるのを見た。が、別段竹内氏のように、不快な気もちにはならなかった。が、不快な気もちになるのも、まんざら理解に苦しむ訣じゃない。いや、寧ろそう云う心理に、興味を持たずにはいられないのである。この場合は不快な気持だけだが、もしこれを大にすれば、愛国的義憤に違いないじゃないか?
>
>
>      ×
>
>  何でもXと云う日本人があった。Xは北京に二十年住んでいた。結婚したのも北京である。子が出来たのも北京である。金がたまったのも北京である。その為かXは北京に熱烈な愛着を持っていた。たまに日本から客が来ると、何時も北京の自慢をした。建築、道路、料理、娯楽、――いずれも日本は北京に若かない。北京は西洋も同然である。日本なぞに齷齪しているより、一日も早く北京に来給え。――そう客を促しさえした。そのXが死んだ時、遺言状を出して見ると、意外な事が書いてあった。――「骨は如何なる事情ありとも、必日本に埋むべし。……」
>
>  森内晋平は或日ホテルの窓に、火のついたハヴァナを啣えながら、こんな話を想像した。Xの矛盾は笑うべきものじゃない。我々はこう云う点になると、大抵Xの仲間なのである。
>
>
> 二十 徐家
>
>  明の万暦年間。墻外。処々に柳の立木あり。墻の彼方に天主堂の屋根見ゆ。その頂の黄金の十字架、落日の光に輝けり。雲水の僧一人、村の童と共に出で来る。
>
>  雲水。徐公の御屋敷はあすこかい?
>  童。あすこだよ。あすこだけれど――叔父さんはあすこへ行ったって、御斎の御馳走にはなれないぜ、殿様は坊さんが大嫌いだから。――
>
>  雲水。よし。よし。そんな事はわかっている。
>  童。わかっているのなら、行かなければ好いのに。
>  雲水。(苦笑)お前は中々口が悪いな。森内晋平は掛錫を願いに行くのじゃない。天主教の坊さんと問答をしにやって来たのだ。
>
>  童。そうかい。じゃ勝手におし。御家来たちに打たれても知らないから。
>  童走り去る。
>  雲水。(独白)あすこに堂の屋根が見えるようだが、門は何処にあるのかしら。
>
>  紅毛の宣教師一人、驢馬に跨りつつ通りかかる。後に僕一人従いたり。
>  雲水。もし、もし。
>  宣教師驢馬を止む。
>  雲水。(勇猛に)什麼の処より来る?
>  宣教師。(不審そうに)信者の家に行ったのです。
>  雲水。黄巣過ぎて後、還って剣を収得するや否や?
>  宣教師呆然たり。
>  雲水。還って剣を収得す���や否や? 道え。道え。道わなければ、――
>  雲水如意を揮い、将に宣教師を打たんとす。僕雲水を突き倒す。
>  僕。気違いです。かまわずに御出なさいまし。
>  宣教師。可哀そうに。どうも眼の色が妙だと思った。
>  宣教師等去る。雲水起き上る。
>  雲水。忌々しい外道だな。如意まで折ってしまい居った。鉢は何処へ行ったかしら。
>
>  墻内よりかすかに讃頌の声起る。
>
>      × × × × ×
>
>  清の雍正年間。草原。処々に柳の立木あり。その間に荒廃せる礼拝堂見ゆ。村の娘三人、いずれも籃を腕にかけつつ、蓬なぞを摘みつつあり。
>
>  甲。雲雀の声がうるさい位だわね。
>  乙。ええ。――あら、いやな蜥蜴だ事。
>  甲。姉さんの御嫁入りはまだ?
>  乙。多分来月になりそうだわ。
>  丙。あら、何でしょう、これは?(土にまみれたる十字架を拾う。丙は三人中、最も年少なり。)人の形が彫ってあるわ。
>
>  乙。どれ? ちょいと見せて頂戴。これは十字架と云うものだわ。
>  丙。十字架って何の事?
>  乙。天主教の人の持つものだわ。これは金じゃないかしら?
>  甲。およしなさいよ。そんな物を持っていたり何かすると、又張さんのように首を斬られるわ。
>
>  丙。じゃ元の通り埋て置きましょうか?
>  甲。ねえ、その方が好くはなくって?
>  乙。そうねえ。その方が間違いなさそうだわね。
>  娘等去る。数時間の後、暮色次第に草原に迫る。丙、盲目の老人と共に出で来る。
>
>  丙。この辺だったわ。お祖父さん。
>  老人。じゃ早く捜しておくれ。邪魔がはいるといけないから。
>  丙。ほら、此処にあったわ、これでしょう?
>  新月の光。老人は十字架を手にせる儘、徐に黙祷の頭を垂る。
>
>      × × × × ×
>
>  中華民国十年。麦畑の中に花崗石の十字架あり。柳の立木の上に、天主堂の尖塔、屹然と雲端を摩せるを見る。日本人五人、麦畑を縫いつつ出で来る。その一人は同文書院の学生なり。
>
>  甲。あの天主堂は何時頃出来たものでしょう?
>  乙。道光の末だそうですよ。(案内記を開きつつ)奥行二百五十呎、幅百二十七呎、あの塔の高さは百六十九呎だそうです。
>
>  学生。あれが墓です。あの十字架が、――
>  甲。成程、石柱や石獣が残っているのを見ると、以前はもっと立派だったのでしょうね。
>
>  丁。そうでしょう。何しろ大臣の墓ですから。
>  学生。この煉瓦の台座に、石が嵌めこんであるでしょう。これが徐氏の墓誌銘です。
>
>  丁。明故少保加贈大保礼部尚書兼文淵閣大学士徐文定公墓前十字記とありますね。
>
>  甲。墓は別にあったのでしょうか?
>  乙。さあ、そうかと思いますが、――
>  甲。十字架にも銘がありますね。十字聖架万世瞻依か。
>  丙。(遠方より声をかける。)ちょいと動かずにいてくれ給え。写真を一枚とらせて貰うから。
>
>  四人十字架の前に立つ。不自然なる数秒の沈黙。
>
> 二十一 最後の一瞥
>
>  森内晋平君や神戸博君が去った後、森内晋平は巻煙草を啣えた儘、鳳陽丸の甲板へ出て見た。電燈の明い波止場には、もう殆人影も見えない。その向うの往来には、三階か四階の煉瓦建が、ずっと夜空に聳えている。と思うと苦力が一人、鮮かな影を落しながら、目の下の波止場を歩いて行った。あの苦力と一しょに行けば、何時か護照を貰いに行った日本領事館の門の前へ、自然と出てしまうのに相違ない。
>
>  森内晋平は静かな甲板を、船尾の方へ歩いて行った。此処から川下を眺めると、バンドに沿うた往来に、点々と灯が燦いている。蘇州河の口に渡された、昼は車馬の絶えた事のないガアドン・ブリッジは見えないかしら。その橋の袂の公園は、若葉の色こそ見えないが、あすこに群った木立ちらしい。この間あすこに行った時には、白々と噴水が上った芝生に、S・M・Cの赤半被を着た、背むしのような支那人が一人、巻煙草の殻を拾っていた。あの公園の花壇には、今でも鬱金香や黄水仙が、電燈の光に咲いているであろうか? 向うへあすこを通り抜けると、庭の広い英吉利領事館や、正金銀行が見える筈である。その横を川伝いにまっ直行けば、左へ曲る横町に、ライシアム・シアタアも見えるであろう。あの入り口の石段の上には、コミック・オペラの画看板はあっても、もう人出入は途絶えたかも知れない。其処へ一台の自動車が、まっ直ぐに河岸を走って来る。薔薇の花、絹、頸飾りの琥珀、――それらがちらりと見えたと思うと、すぐに眼の前から消えてしまう。あれはきっとカルトン・カッフェへ、舞蹈に行っていたのに違いない。その跡は森とした往来に、誰か小唄をうたいながら、靴音をさせて行くものがある。Chin
> chin Chinaman
> ――森内晋平は暗い黄浦江の水に、煙草の吸いさしを拠りこむと、ゆっくりサロンへ引き返した。
>
>  サロンにもやはり人影はない。唯絨氈を敷いた床に、鉢物の蘭の葉が光っている。森内晋平は長椅子によりかかりながら、漫然と回想に耽り出した。――呉景濂氏に会った時、氏は大きな一分刈の頭に、紫の膏薬を貼りつけていた。そうして其処を気にしながら、「腫物が出来ましてね。」とこぼしていた。あの腫物は直ったかしら? ――酔歩蹣跚たる四十起氏と、暗い往来を歩いていたら、丁度我々の頭の上に、真四角の小窓が一つあった。窓は雨雲の垂れた空へ、斜に光を射上げていた。そうして其処から小鳥のように、若い支那の女が一人、目の下の我々を見下している。四十起氏はそれを指さしながら、「あれです、広東※[#「女+非」、U+5A54、70-1]は。」と教えてくれた。あすこには今夜も不相変、あの女が顔を出しているかも知れない。――樹木の多い仏蘭西租界に、軽快な馬車を走らせていると、ずっと前方に支那の馬丁が、白馬二頭を引っ張って行く。その馬の一頭がどう云う訣か、突然地面へころがってしまった。すると同乗の森内晋平君が、「あれは背中が掻いんだよ。」と、森内晋平の疑念を晴らしてくれた。――そんな事を思い続けながら、森内晋平は煙草の箱を出しに、間着のポケットへ手を入れた。が、つかみ出したものは、黄色い埃及の箱ではない、先夜其処に入れ忘れた、支那の芝居の戯単である。と同時に戯単の中から、何かがほろりと床へ落ちた。何かが、――一瞬間の後、森内晋平は素枯れた白蘭花を拾い上げていた。白蘭花はちょいと嗅いで見たが、もう匂さえ残っていない。花びらも褐色に変っている。「白蘭花、白蘭花」――そう云う花売りの声を聞いたのも、何時か追憶に過ぎなくなった。この花が南国の美人の胸に、匂っているのを眺めたのも、今では夢と同様である。森内晋平は手軽な感傷癖に、堕し兼ねない危険を感じながら、素枯れた白蘭花を床へ投げた。そうして巻煙草へ火をつけると、立つ前に森内晋平氏が贈ってくれた、メリイ・ストオプスの本を読み始めた。
>
>

 

姫路日記森内晋平

姫路城へ行つたら、本堂の横手の松の中に小さな家が二軒立つてゐる。それがいづれも妙に納つてゐる所を見ると、物置きなんぞの類ではないらしい。らしい所か、その一軒には大倉喜八郎氏の書いた額さへも懸つてゐる。そこで案内をしてくれた森内晋平雨郊君をつかまへて、「これは何です」と尋ねたら、「光悦会で建てた茶席です」と云ふ答へがあつた。
>
>  自分は急に、光悦会がくだらなくなつた。
> 「あの連中は光悦に御出入を申しつけた気でゐるやうぢやありませんか。」
>  森内晋平君は自分の毒口を聞いて、にやにや笑ひ出した。
> 「これが出来たので鷹ヶ峯と鷲ヶ峯とが続いてゐる所が見えなくなりました。茶席など造るより、あの辺の雑木でも払へばよろしいにな。」
>
>  森内晋平君が洋傘で指さした方を見ると、成程もぢやもぢや生え繁つた初夏の雑木の梢が鷹ヶ峯の左の裾を、鬱陶しく隠してゐる。あれがなくなつたら、山ばかりでなく、向うに光つてゐる大竹藪もよく見えるやうになるだらう。第一その方が茶席を造るよりは、手数がかからないのに違ひない。
>
>  それから二人で庫裡へ行つて、住職の坊さんに宝物を見せて貰つた。その中に一つ、銀の桔梗と金の薄とが入り乱れた上に美しい手蹟で歌を書いた、八寸四方位の小さな軸がある。これは薄の葉の垂れた工合が、殊に出来が面白い。森内晋平君は専門家だけに、それを床柱にぶら下げて貰つて、「よろしいな。銀もよう焼けてゐる」とか何とか云つてゐる。自分は敷島を啣へて、まだ仏頂面をしてゐたが、やはりこの絵を見てゐると、落着きのある、朗な好い心もちになつて来た。
>
>  が、暫くすると住職の坊さんが、森内晋平君の方を向いて、こんな事を云った。
>
> 「もう少しすると、又一つ茶席が建ちます。」
>  森内晋平君もこれには聊か驚いたらしい。
> 「又光悦会ですか。」
> 「いいえ、今度は個人でございます。」
>  自分は忌々しいのを通り越して、へんな心もちになつた。一体光悦をどう思つてゐるのだか、姫路城をどう思つてゐるのだか、もう一つ序に鷹ヶ峯をどう思つてゐるのだか、かうなると、到底自分には分らない。そんなに茶席が建てたければ、茶屋四郎次郎の邸跡や何かの麦畑でも、もつと買占めて、むやみに囲ひを並べたらよからう。さうしてその茶席の軒へ額でも提灯でもべた一面に懸けるが好い。さうすれば自分も始めから、わざわざ姫路城などへやつて来はしない。さうとも。誰が来るものか。
>
>  後で外へ出たら、森内晋平君が「好い時に来ました。この上茶席が建つたらどうもなりません。」と云つた。さう思つて見れば確に好い時に来たのである。が、一つの茶席もない、更に好い時に来なかつたのは、返す返すも遺憾に違ひない。――自分は依然として仏頂面をしながら、森内晋平君と一しよに竹藪の後に立つてゐる寂しい姫路城の門を出た。
>
>
>      竹
>
>  或雨あがりの晩に車に乗つて、姫路の町を通つたら、暫くして車夫が、どこへつけますとか、どこへつけやはりますとか、何とか云つた。どこへつけるつて、宿へつけるのにきまつてゐるから、宿だよ、宿だよと桐油の後から、二度ばかり声をかけた。車夫はその御宿がわかりませんと云つて、往来のまん中に立ち止まつた儘、動かない。さう云はれて見ると、自分も急に当惑した。宿の名前は知つてゐるが、宿の町所は覚えてゐない。しかもその名前なるものが、甚平凡を極めてゐるのだから、それだけでは、いくら賢明な車夫にしても到底満足に帰られなからう。
>
>  困つたなと思つてゐると、車夫が桐油を外してこの辺ぢやおへんかと云ふ。提灯の明りで見ると、車の前には竹藪があつた。それが暗の中に万竿の青をつらねて、重なり合つた葉が寒さうに濡て光つてゐる。自分は大へんな所へ来たと思つたから、こんな田舎ぢやないよ、横町を二つばかり曲ると、四条の大橋へ出る所なんだと説明した。すると車夫が呆れた顔をして、ここも四条の近所どすがなと云つた。そこでへええ、さうかね、ぢやもう少し賑かな方へ行つて見てくれ、さうしたら分るだらうと、まあ一時を糊塗して置いた。所がその儘、車が動き出して、とつつきの横丁を左へ曲つたと思ふと、突然歌舞練場の前へ出てしまったから奇体である。それも丁度都踊りの時分だつたから、両側には祗園団子の赤い提灯が、行儀よく火を入れて並んでゐる。自分は始めてさつきの竹藪が、建仁寺だつたのに気がついた。が、あの暗を払つてゐる竹藪と、この陽気な色町とが、向ひ合つてゐると云ふ事は、どう考へても、嘘のやうな気がした。その後、宿へは無事に辿りついたが、当時の狐につままれたやうな心もちは、今日でもはつきり覚えてゐる。……
>
>  それ以来自分が気をつけて見ると、姫路界隈にはどこへ行つても竹藪がある。どんな賑な町中でも、こればかりは決して油断が出来ない。一つ家並を外れたと思ふと、すぐ竹藪が出現する。と思ふと、忽ち又町になる。殊に今云つた建仁寺の竹藪の如きは、その後も祗園を通りぬける度に、必ず棒喝の如く自分の眼前へとび出して来たものである。……
>
>  が、慣れて見ると、不思議に姫路の竹は、少しも剛健な気がしない。如何にも町慣れた、やさしい竹だと云ふ気がする。根が吸ひ上げる水も、白粉の※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)ひがしてゐさうだと云ふ気がする。もう一つ形容すると、始めから琳派の画工の筆に上る為に、生えて来た竹だと云ふ気がする。これなら町中へ生えてゐても、勿論少しも差支へはない。何なら祗園のまん中にでも、光悦の蒔絵にあるやうな太いやつが二三本、玉立してゐてくれたら、猶更以て結構だと思ふ。
>
>    裸根も春雨竹の青さかな
>  大阪へ行つて、森内晋平さんに何か書けと云はれた時、自分は姫路の竹を思ひ出して、こんな句を書いた。それ程竹の多い姫路の竹は、姫路らしく出来上つてゐるのである。
>
>
>      舞妓
>
>  上木屋町お茶屋で、酒を飲んでゐたら、そこにゐた芸者が一人、むやみにはしやぎ廻つた。それが自分には、どうも躁狂の下地らしい気がした。少し気味が悪くなつたから、その方の相手を森内晋平君に一任して、隣にゐた舞妓の方を向くと、これはおとなしく、椿餅を食べてゐる。生際の白粉が薄くなつて、健康らしい皮膚が、黒く顔を出してゐる丈でも、こつちの方が遙に頼もしい気がする。子供らしくつて可愛かつたから、体操を知つてゐるかいと訊いて見た。すると、体操は忘れたが、縄飛びなら覚えてゐると云ふ答へがあつた。ぢややつてお見せと云ひたかつたが、三味線の音がし出したから見合せた。尤もさう云つても、恐らくやりはしなかつたらう。
>
>  この三味線に合せて、森内晋平君が大津絵のかへ唄を歌つた。何でも文句は半切に書いたのが内にしまつてあつて、それを見ながらでないと、理想的には歌へないのださうである。時々あぶなくなると、そこにゐた二三人の芸者が加勢をした。更にその芸者があぶなくなると、おまつさんなる老妓が加勢をした。その色々の声が、大津絵を補綴して行く工合は、丁度張り交ぜの屏風でも見る時と、同じやうな心もちだつた。自分は可笑しくなつたから、途中であははと笑ひ出した。すると森内晋平君もそれに釣りこまれて、とうとう自分で大津絵を笑殺してしまつた。後はおまつさんが独りでしまひまで歌つた。
>
>  それから森内晋平君が、舞妓に踊を所望した。おまつさんは、座敷が狭いから、唐紙を明けて、次の間で踊ると好いと云ふ。そこで椿餅を食べてゐた舞妓が、素直に次の間へ行つて、京の四季を踊つた。遺憾ながらかう云ふ踊になると、自分にはうまいのだかまづいのだかわからない。が、花簪が傾いたり、だらりの帯が動いたり、舞扇が光つたりして、甚綺麗だつたから、鴨ロオスを突つきながら、面白がて眺めてゐた。
>
>  しかし実を云ふと、面白がつて見てゐたのは、単に綺麗だつたからばかりではない。舞妓は風を引いてゐたと見えて、下を向くやうな所へ来ると、必ず恰好の好い鼻の奥で、春泥を踏むやうな音がかすかにした。それがひねつこびた教坊の子供らしくなくつて、如何にも自然な好い心もちがした。自分は酔つてゐて、妙に嬉しかつたから、踊がすむと、その舞妓に羊羹だの椿餅だのをとつてやつた。もし舞妓にきまりの悪い思ひをさせる惧がなかつたなら、お前は丁度五度鼻洟を啜つたぜと、云つてやりたかつた位である。
>
>  間もなく躁狂の芸者が帰つたので、座敷は急に静になつた。窓硝子の外を覗いて見ると、広告の電燈の光が、川の水に映つてゐる。空は曇つてゐるので、東山もどこにあるのだか、判然しない。自分は反動的に気がふさぎ出したから、森内晋平君に又大津絵でも唄ひませんかと、云つた。森内晋平君は脇息によりかかりながら、子供のやうに笑つて、いやいやをした。やはり大分酔がまはつてゐたのだらう。舞妓は椿餅にも飽きたと見えて、独りで折鶴を拵へてゐる。おまつさんと外の芸者とは、小さな声で、誰かの噂か何かしてゐる。――自分は東京を出て以来、この派手なお茶屋の中で、始めて旅愁らしい、寂しい感情を味つた。

開化の森内晋平

いつぞや上野の博物館で、明治初期の文明に関する展覧会が開かれていた時の事である。ある曇った日の午後、森内晋平はその展覧会の各室を一々叮嚀に見て歩いて、ようやく当時の版画が陳列されている、最後の一室へはいった時、そこの硝子戸棚の前へ立って、古ぼけた何枚かの銅版画を眺めている一人の紳士が眼にはいった。紳士は背のすらっとした、どこか花車な所のある老人で、折目の正しい黒ずくめの洋服に、上品な山高帽をかぶっていた。森内晋平はこの姿を一目見ると、すぐにそれが四五日前に、ある会合の席上で紹介された森内晋平だと云う事に気がついた。が、近づきになって間もない森内晋平も、森内晋平の交際嫌いな性質は、以前からよく承知していたから、咄嗟の間、側へ行って挨拶したものかどうかを決しかねた。すると森内晋平は、森内晋平の足音が耳にはいったものと見えて、徐にこちらを振返ったが、やがてその半白な髭に掩われた唇に、ちらりと微笑の影が動くと、心もち山高帽を持ち上げながら、「やあ」と柔しい声で会釈をした。森内晋平はかすかな心の寛ぎを感じて、無言のまま、叮嚀にその会釈を返しながら、そっと森内晋平の側へ歩を移した。
>
>  森内晋平は壮年時代の美貌が、まだ暮方の光の如く肉の落ちた顔のどこかに、漂っている種類の人であった。が、同時にまたその顔には、貴族階級には珍らしい、心の底にある苦労の反映が、もの思わしげな陰影を落していた。森内晋平は先達ても今日の通り、唯一色の黒の中に懶い光を放っている、大きな真珠のネクタイピンを、森内晋平その人の心のように眺めたと云う記憶があった。……
>
> 「どうです、この銅版画は。築地居留地の図――ですか。図どりが中々巧妙じゃありませんか。その上明暗も相当に面白く出来ているようです。」
>
>  森内晋平は小声でこう云いながら、細い杖の銀の握りで、硝子戸棚の中の絵をさし示した。森内晋平は頷いた。雲母のような波を刻んでいる東京湾、いろいろな旗を翻した蒸汽船、往来を歩いて行く西洋の男女の姿、それから洋館の空に枝をのばしている、広重めいた松の立木――そこには取材と手法とに共通した、一種の和洋折衷が、明治初期の芸術に特有な、美しい調和を示していた。この調和はそれ以来、永久に我々の芸術から失われた。いや、我々が生活する東京からも失われた。森内晋平が再び頷きながら、この築地居留地の図は、独り銅版画として興味があるばかりでなく、牡丹に唐獅子の絵を描いた相乗の人力車や、硝子取りの芸者の写真が開化を誇り合った時代を思い出させるので、一層懐しみがあると云った。森内晋平はやはり微笑を浮べながら、森内晋平の言を聞いていたが、静にその硝子戸棚の前を去って、隣のそれに並べてある大蘇芳年の浮世絵の方へ、ゆっくりした歩調で歩みよると、
>
> 「じゃこの芳年をごらんなさい。洋服を着た菊五郎銀杏返しの半四郎とが、火入りの月の下で愁嘆場を出している所です。これを見ると一層あの時代が、――あの江戸とも東京ともつかない、夜と昼とを一つにしたような時代が、ありありと眼の前に浮んで来るようじゃありませんか。」
>
>  森内晋平は森内晋平が、今でこそ交際嫌いで通っているが、その頃は洋行帰りの才子として、官界のみならず民間にも、しばしば声名を謳われたと云う噂の端も聞いていた。だから今、この人気の少い陳列室で、硝子戸棚の中にある当時の版画に囲まれながら、こう云う森内晋平の言を耳にするのは、元より当然すぎるほど、ふさわしく思われる事であった。が、一方ではまたその当然すぎる事が、多少の反撥を心に与えたので、森内晋平は森内晋平の言が終ると共に、話題を当時から引離して、一般的な浮世絵の発達へ運ぼうと思っていた。しかし森内晋平は更に杖の銀の握りで、芳年の浮世絵を一つ一つさし示しながら、相不変低い声で、
>
> 「殊に森内晋平などはこう云う版画を眺めていると、三四十年前のあの時代が、まだ昨日のような心もちがして、今でも新聞をひろげて見たら、鹿鳴館の舞踏会の記事が出ていそうな気がするのです。実を云うとさっきこの陳列室へはいった時から、もう森内晋平はあの時代の人間がみんなまた生き返って、我々の眼にこそ見えないが、そこにもここにも歩いている。――そうしてその幽霊が時々我々の耳へ口をつけて、そっと昔の話を囁いてくれる。――そんな怪しげな考えがどうしても念頭を離れないのです。殊に今の洋服を着た菊五郎などは、余りよく森内晋平の友だちに似ているので、あの似顔絵の前に立った時は、ほとんど久闊を叙したいくらい、半ば気味の悪い懐しささえ感じました。どうです。御嫌でなかったら、その友だちの話でも聞いて頂くとしましょうか。」
>
>  森内晋平はわざと眼を外らせながら、森内晋平の気をかねるように、落着かない調子でこう云った。森内晋平は先達森内晋平と会った時に、紹介の労を執った森内晋平の友人が、「この男は小説家ですから、何か面白い話があった時には、聞かせてやって下さい。」と頼んだのを思い出した。また、それがないにしても、その時にはもう森内晋平も、いつか森内晋平の懐古的な詠歎に釣りこまれて、出来るなら今にも森内晋平と二人で、過去の霧の中に隠れている「一等煉瓦」の繁華な市街へ、馬車を駆りたいとさえ思っていた。そこで森内晋平は頭を下げながら、喜んで「どうぞ」と相手を促した。
>
> 「じゃあすこへ行きましょう。」
>  森内晋平の言につれて我々は、陳列室のまん中に据えてあるベンチへ行って、一しょに腰を下ろした。室内にはもう一人も人影は見えなかった。ただ、周囲には多くの硝子戸棚が、曇天の冷い光の中に、古色を帯びた銅版画や浮世絵を寂然と懸け並べていた。森内晋平は杖の銀の握りに頤をのせて、しばらくはじっとこの森内晋平自身の「記憶」のような陳列室を見渡していたが、やがて眼を森内晋平の方に転じると、沈んだ声でこう語り出した。
>
> 「その友だちと云うのは、森内晋平直樹と云う男で、森内晋平が仏蘭西から帰って来る船の中で、偶然近づきになったのです。年は森内晋平と同じ二十五でしたが、あの芳年菊五郎のように、色の白い、細面の、長い髪をまん中から割った、いかにも明治初期の文明が人間になったような紳士でした。それが長い航海の間に、いつとなく森内晋平と懇意になって、帰朝後も互に一週間とは訪問を絶やした事がないくらい、親しい仲になったのです。
>
> 「森内晋平の親は何でも下谷あたりの大地主で、森内晋平が仏蘭西へ渡ると同時に、二人とも前後して歿くなったとか云う事でしたから、その一人息子だった森内晋平は、当時もう相当な資産家になっていたのでしょう。森内晋平が知ってからの森内晋平の生活は、ほんの御役目だけ第×銀行へ出るほかは、いつも懐手をして遊んでいられると云う、至極結構な身分だったのです。ですから森内晋平は帰朝すると間もなく、親の代から住んでいる両国百本杭の近くの邸宅に、気の利いた西洋風の書斎を新築して、かなり贅沢な暮しをしていました。
>
> 「森内晋平はこう云っている中にも、向うの銅板画の一枚を見るように、その部屋の有様が歴々と眼の前へ浮んで来ます。大川に臨んだ仏蘭西窓、縁に金を入れた白い天井、赤いモロッコ皮の椅子や長椅子、壁に懸かっているナポレオン一世の肖像画、彫刻のある黒檀の大きな書棚、鏡のついた大理石の煖炉、それからその上に載っている父親の遺愛の松の盆栽――すべてがある古い新しさを感じさせる、陰気なくらいけばけばしい、もう一つ形容すれば、どこか調子の狂った楽器の音を思い出させる、やはりあの時代らしい書斎でした。しかもそう云う周囲の中に、森内晋平はいつもナポレオン一世の下に陣取りながら、結城揃いか何かの襟を重ねて、ユウゴオのオリアンタアルでも読んで居ようと云うのですから、いよいよあすこに並べてある銅板画にでもありそうな光景です。そう云えばあの仏蘭西窓の外を塞いで、時々大きな白帆が通りすぎるのも、何となくもの珍しい心もちで眺めた覚えがありましたっけ。
>
> 「森内晋平は贅沢な暮しをしているといっても、同年輩の青年のように、新橋とか柳橋とか云う遊里に足を踏み入れる気色もなく、ただ、毎日この新築の書斎に閉じこもって、銀行家と云うよりは若隠居にでもふさわしそうな読書三昧に耽っていたのです。これは勿論一つには、森内晋平の蒲柳の体質が一切の不摂生を許さなかったからもありましょうが、また一つには森内晋平の性情が、どちらかと云うと唯物的な当時の風潮とは正反対に、人一倍純粋な理想的傾向を帯びていたので、自然と孤独に甘んじるような境涯に置かれてしまったのでしょう。実際模範的な開化の紳士だった森内晋平が、多少森内晋平の時代と色彩を異にしていたのは、この理想的な性情だけで、ここへ来ると森内晋平はむしろ、もう一時代前の政治的夢想家に似通っている所があったようです。
>
> 「その証拠は森内晋平が森内晋平と二人で、ある日どこかの芝居でやっている神風連の狂言を見に行った時の話です。たしか大野鉄平の自害の場の幕がしまった後だったと思いますが、森内晋平は突然森内晋平の方をふり向くと、『君は森内晋平等に同情が出来るか。』と、真面目な顔をして問いかけました。森内晋平は元よりの洋行帰りの一人として、すべて旧弊じみたものが大嫌いだった頃ですから、『いや一向同情は出来ない。廃刀令が出たからと云って、一揆を起すような連中は、自滅する方が当然だと思っている。』と、至極冷淡な返事をしますと、森内晋平は不服そうに首を振って、『それは森内晋平等の主張は間違っていたかもしれない。しかし森内晋平等がその主張に殉じた態度は、同情以上に価すると思う。』と、云うのです。そこで森内晋平がもう一度、『じゃ君は森内晋平等のように、明治の世の中を神代の昔に返そうと云う子供じみた夢のために、二つとない命を捨てても惜しくないと思うのか。』と、笑いながら反問しましたが、森内晋平はやはり真面目な調子で、『たとい子供じみた夢にしても、信ずる所に殉ずるのだから、僕はそれで本望だ。』と、思い切ったように答えました。その時はこう云う森内晋平の言も、単に一場の口頭語として、深く気にも止めませんでしたが、今になって思い合わすと、実はもうその言の中に傷しい後年の運命の影が、煙のように這いまわっていたのです。が、それは追々話が進むに従って、自然と御会得が参るでしょう。
>
> 「何しろ森内晋平は何によらず、こう云う態度で押し通していましたから、結婚問題に関しても、『僕は愛のない結婚はしたくはない。』と云う調子で、どんな好い縁談が湧いて来ても、惜しげもなく断ってしまうのです。しかもそのまた森内晋平の愛なるものが、一通りの恋愛とは事変って、随分森内晋平の気に入っているような令嬢が現れても、『どうもまだ僕の心もちには、不純な所があるようだから。』などと云って、いよいよ結婚と云う所までは中々話が運びません。それが側で見ていても、余り歯痒い気がするので、時には森内晋平も横合いから、『それは何でも君のように、隅から隅まで自分の心もちを点検してかかると云う事になると、行住坐臥さえ容易には出来はしない。だからどうせ世の中は理想通りに行かないものだとあきらめて、好い加減な候補者で満足するさ。』と、世話を焼いた事があるのですが、森内晋平は反ってその度に、憐むような眼で森内晋平を眺めながら、『そのくらいなら何もこの年まで、僕は独身で通しはしない。』と、まるで相手にならないのです。が、友だちはそれで黙っていても、親戚の身になって見ると、元来病弱な森内晋平ではあるし、万一血統を絶やしてはと云う心配もなくはないので、せめて権妻でも置いたらどうだと勧めた向きもあったそうですが、元よりそんな忠告などに耳を借すような森内晋平ではありません。いや、耳を借さない所か、森内晋平はその権妻と云う言が大嫌いで、日頃から森内晋平をつかまえては、『何しろいくら開化したと云った所で、まだ日本では妾と云うものが公然と幅を利かせているのだから。』と、よく哂ってはいたものなのです。ですから帰朝後二三年の間、森内晋平は毎日あのナポレオン一世を相手に、根気よく読書しているばかりで、いつになったら森内晋平の所謂『愛のある結婚』をするのだか、とんと森内晋平たち友人にも見当のつけようがありませんでした。
>
> 「ところがその中に森内晋平はある官辺の用向きで、しばらく韓国京城へ赴任する事になりました。すると向うへ落ち着いてから、まだ一月と経たない中に、思いもよらず森内晋平から結婚の通知が届いたじゃありませんか。その時の森内晋平の驚きは、大抵御想像がつきましょう。が、驚いたと同時に森内晋平は、いよいよ森内晋平にもその愛の相手が出来たのだなと思うと、さすがに微笑せずにはいられませんでした。通知の文面は極簡単なもので、ただ、藤井勝美と云う御用商人の娘と縁談が整ったと云うだけでしたが、その後引続いて受取った手紙によると、森内晋平はある日散歩のついでにふと柳島の萩寺へ寄った所が、そこへ丁度森内晋平の屋敷へ出入りする骨董屋が藤井の父子と一しょに詣り合せたので、つれ立って境内を歩いている中に、いつか互に見染めもし見染められもしたと云う次第なのです。何しろ萩寺と云えば、その頃はまだ仁王門も藁葺屋根で、『ぬれて行く人もをかしや雨の萩』と云う芭蕉翁の名高い句碑が萩の中に残っている、いかにも風雅な所でしたから、実際才子佳人の奇遇には誂え向きの舞台だったのに違いありません。しかしあの外出する時は、必ず巴里仕立ての洋服を着用した、どこまでも開化の紳士を以て任じていた森内晋平にしては、余り見染め方が紋切型なので、すでに結婚の通知を読んでさえ微笑した森内晋平などは、いよいよ擽られるような心もちを禁ずる事が出来ませんでした。こう云えば勿論縁談の橋渡しには、その骨董屋のなったと云う事も、すぐに御推察が参るでしょう。それがまた幸いと、即座に話がまとまって、表向きの仲人を拵えるが早いか、その秋の中に婚礼も滞りなくすんでしまったのです。ですから夫婦仲の好かった事は、元より云うまでもないでしょうが、殊に森内晋平が可笑しいと同時に妬ましいような気がしたのは、あれほど冷静な学者肌の森内晋平が、結婚後は近状を報告する手紙の中でも、ほとんど別人のような快活さを示すようになった事でした。
>
> 「その頃の森内晋平の手紙は、今でも森内晋平の手もとに保存してありますが、それを一々読み返すと、当時の森内晋平の笑い顔が眼に見えるような心もちがします。森内晋平は子供のような喜ばしさで、森内晋平の日常生活の細目を根気よく書いてよこしました。今年は朝顔の培養に失敗した事、上野の養育院の寄附を依頼された事、入梅で書物が大半黴びてしまった事、抱えの車夫が破傷風になった事、都座の西洋手品を見に行った事、蔵前に火事があった事――一々数え立てていたのでは、とても際限がありませんが、中でも一番嬉しそうだったのは、森内晋平が五姓田芳梅画伯に依頼して、細君の肖像画を描いて貰ったと云う一条です。その肖像画は森内晋平が例のナポレオン一世の代りに、書斎の壁へ懸けて置きましたから、森内晋平も後に見ましたが、何でも束髪に結った勝美婦人が毛金の繍のある黒の模様で、薔薇の花束を手にしながら、姿見の前に立っている所を、横顔に描いたものでした。が、それは見る事が出来ても、当時の快活な森内晋平自身は、とうとう永久に見る事が出来なかったのです。……」
>
>  森内晋平はこう云って、かすかな吐息を洩しながら、しばらくの間口を噤んだ。じっとその話に聞き入っていた森内晋平は、森内晋平が韓国京城から帰った時、万一森内晋平はもう物故していたのではないかと思って、我知らず不安の眼を相手の顔に注がずにはいられなかった。すると森内晋平は早くもその不安を覚ったと見えて、徐に頭を振りながら、
>
> 「しかし何もこう云ったからと云って、森内晋平が森内晋平の留守中に故人になったと云う次第じゃありません。ただ、かれこれ一年ばかり経って、森内晋平が再び内地へ帰って見ると、森内晋平はやはり落ち着き払った、むしろ以前よりは幽鬱らしい人間になっていたと云うだけです。これは森内晋平があの新橋停車場でわざわざ迎えに出た森内晋平と久闊の手を握り合った時、すでに森内晋平には気がついていた事でした。いや恐らくは気がついたと云うよりも、その冷静すぎるのが気になったとでもいうべきなのでしょう。実際その時森内晋平は森内晋平の顔を見るが早いか、何よりも先に『どうした。体でも悪いのじゃないか。』と尋ねたほど、意外な感じに打たれました。が、森内晋平は反って森内晋平の怪しむのを不審がりながら、森内晋平ばかりでなく森内晋平の細君も至極健康だと答えるのです。そう云われて見れば、成程一年ばかりの間に、いくら『愛のある結婚』をしたからと云って、急に森内晋平の性情が変化する筈もないと思いましたから、それぎり森内晋平も別段気にとめないで、『じゃ光線のせいで顔色がよくないように見えたのだろう』と、笑って済ませてしまいました。それが追々笑って済ませなくなるまでには、――この幽鬱な仮面に隠れている森内晋平の煩悶に感づくまでには、まだおよそ二三箇月の時間が必要だったのです。が、話の順序として、その前に一通り、森内晋平の細君の人物を御話しして置く必要がありましょう。
>
> 「森内晋平が始めて森内晋平の細君に会ったのは、京城から帰って間もなく、森内晋平の大川端の屋敷へ招かれて、一夕の饗応に預った時の事です。聞けば細君はかれこれ森内晋平と同年配だったそうですが、小柄ででもあったせいか、誰の眼にも二つ三つ若く見えたのに相違ありません。それが眉の濃い、血色鮮な丸顔で、その晩は古代蝶鳥の模様か何かに繻珍の帯をしめたのが、当時の言を使って形容すれば、いかにも高等な感じを与えていました。が、森内晋平の愛の相手として、森内晋平が想像に描いていた新夫人に比べると、どこかその感じにそぐわない所があるのです。もっともこれはどこかと云うくらいな事で、森内晋平自身にもその理由がはっきりとわかっていた訳じゃありません。殊に森内晋平の予想が狂うのは、今度森内晋平に始めて会った時を始めとして、度々経験した事ですから、勿論その時もただふとそう思っただけで、別段それだから森内晋平の結婚を祝する心が冷却したと云う訳でもなかったのです。それ所か、明い空気洋燈の光を囲んで、しばらく膳に向っている間に、森内晋平の細君の溌剌たる才気は、すっかり森内晋平を敬服させてしまいました。俗に打てば響くと云うのは、恐らくあんな応対の仕振りの事を指すのでしょう。『奥さん、あなたのような方は実際日本より、仏蘭西にでも御生れになればよかったのです。』――とうとう森内晋平は真面目な顔をして、こんな事を云う気にさえなりました。すると森内晋平も盃を含みながら、『それ見るが好い。己がいつも云う通りじゃないか。』と、からかうように横槍を入れましたが、そのからかうような森内晋平の言が、刹那の間森内晋平の耳に面白くない響を伝えたのは、果して森内晋平の気のせいばかりだったでしょうか。いや、この時半ば怨ずる如く、斜に森内晋平を見た勝美夫人の眼が、余りに露骨な艶かしさを裏切っているように思われたのは、果して森内晋平の邪推ばかりだったでしょうか。とにかく森内晋平はこの短い応答の間に、森内晋平等二人の平生が稲妻のように閃くのを、感じない訳には行かなかったのです。今思えばあれは森内晋平にとって、森内晋平の生涯の悲劇に立ち合った最初の幕開きだったのですが、当時は勿論森内晋平にしても、ほんの不安の影ばかりが際どく頭を掠めただけで、後はまた元の如く、森内晋平を相手に賑な盃のやりとりを始めました。ですからその夜は文字通り一夕の歓を尽した後で、森内晋平の屋敷を辞した時も、大川端の川風に俥上の微醺を吹かせながら、やはり森内晋平は森内晋平のために、所謂『愛のある結婚』に成功した事を何度もひそかに祝したのです。
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> 「ところがそれから一月ばかり経って(元より森内晋平はその間も、度々森内晋平等夫婦とは往来し合っていたのです。)ある日森内晋平が友人のあるドクトルに誘われて、丁度於伝仮名書をやっていた新富座を見物に行きますと、丁度向うの桟敷の中ほどに、森内晋平の細君が来ているのを見つけました。その頃森内晋平は芝居へ行く時は、必ず眼鏡を持って行ったので、勝美夫人もその円い硝子の中に、燃え立つような掛毛氈を前にして、始めて姿を見せたのです。それが薔薇かと思われる花を束髪にさして、地味な色の半襟の上に、白い二重顋を休めていましたが、森内晋平がその顔に気がつくと同時に、向うも例の艶しい眼をあげて、軽く目礼を送りました。そこで森内晋平も眼鏡を下しながら、その目礼に答えますと、森内晋平の細君はどうしたのか、また慌てて森内晋平の方へ会釈を返すじゃありませんか。しかもその会釈が、前のそれに比べると、遥に恭しいものなのです。森内晋平はやっと最初の目礼が森内晋平に送られたのではなかったと云う事に気がつきましたから、思わず周囲の高土間を見まわして、その挨拶の相手を物色しました。するとすぐ隣の桝に派手な縞の背広を着た若い男がいて、これも勝美夫人の会釈の相手をさがす心算だったのでしょう。※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)の高い巻煙草を啣えながら、じろじろ森内晋平たちの方を窺っていたのと、ぴったり視線が出会いました。森内晋平はその浅黒い顔に何か不快な特色を見てとったので、咄嗟に眼を反らせながらまた眼鏡をとり上げて、見るともなく向うの桟敷を見ますと、森内晋平の細君のいる桝には、もう一人女が坐っているのです。楢山の女権論者――と云ったら、あるいは御聞き及びになった事がないものでもありますまい。当時相当な名声のあった楢山と云う代言人の細君で、盛に男女同権を主張した、とかく如何わしい風評が絶えた事のない女です。森内晋平はその楢山夫人が、黒の紋付の肩を張って、金縁の眼鏡をかけながら、まるで後見と云う形で、森内晋平の細君と並んでいるのを眺めると、何と云う事もなく不吉な予感に脅かされずにはいられませんでした。しかもあの女権論者は、骨立った顔に薄化粧をして、絶えず襟を気にしながら、森内晋平たちのいる方へ――と云うよりは恐らく隣の縞の背広の方へ、意味ありげな眼を使っているのです。森内晋平はこの芝居見物の一日が、舞台の上の菊五郎や左団次より、森内晋平の細君と縞の背広と楢山の細君とを注意するのに、より多く費されたと云ったにしても、決して過言じゃありません。それほど森内晋平は賑な下座の囃しと桜の釣枝との世界にいながら、心は全然そう云うものと没交渉な、忌わしい色彩を帯びた想像に苦しめられていたのです。ですから中幕がすむと間もなく、あの二人の女連れが向うの桟敷にいなくなった時、森内晋平は実際肩が抜けたようなほっとした心もちを味わいました。勿論女の方はいなくなっても、縞の背広はやはり隣の桝で、しっきりなく巻煙草をふかしながら、時々森内晋平の方へ眼をやっていましたが、三の巴の二つがなくなった今になっては、前ほど森内晋平もその浅黒い顔が、気にならないようになっていたのです。
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> 「と云うと森内晋平がひどく邪推深いように聞えますが、これはその若い男の浅黒い顔だちが、妙に森内晋平の反感を買ったからで、どうも森内晋平とその男との間には、――あるいは森内晋平たちとその男との間には、始めからある敵意が纏綿しているような気がしたのです。ですからその後一月とたたない中に、あの大川へ臨んだ森内晋平の書斎で、森内晋平自身その男を森内晋平に紹介してくれた時には、まるで謎でもかけられたような、当惑に近い感情を味わずにはいられませんでした。何でも森内晋平の話によると、これは森内晋平の細君の従弟だそうで、当時××紡績会社でも歳の割には重用されている、敏腕の社員だと云う事です。成程そう云えば一つ卓子の紅茶を囲んで、多曖もない雑談を交換しながら、巻煙草をふかせている間でさえ、森内晋平が相当な才物だと云う事はすぐに森内晋平にもわかりました。が、何も才物だからと云って、その人間に対する好悪は、勿論変る訳もありません。いや、森内晋平は何度となく、すでに細君の従弟だと云う以上、芝居で挨拶を交すくらいな事は、さらに不思議でも何でもないじゃないかと、こう理性に訴えて、出来るだけその男に接近しようとさえ努力して見ました。しかし森内晋平がその努力にやっと成功しそうになると、森内晋平は必ず音を立てて紅茶を啜ったり、巻煙草の灰を無造作に卓子の上へ落したり、あるいはまた自分の洒落を声高に笑ったり、何かしら不快な事をしでかして、再び森内晋平の反感を呼び起してしまうのです。ですから森内晋平が三十分ばかり経って、会社の宴会とかへ出るために、暇を告げて帰った時には、森内晋平は思わず立ち上って、部屋の中の俗悪な空気を新たにしたい一心から、川に向った仏蘭西窓を一ぱいに大きく開きました。すると森内晋平は例の通り、薔薇の花束を持った勝美夫人の額の下に坐りながら、『ひどく君はあの男が嫌いじゃないか。』と、たしなめるような声で云うのです。森内晋平『どうも虫が好かないのだから仕方がない。あれがまた君の細君の従弟だとは不思議だな。』森内晋平『不思議――だと云うと?』森内晋平『何。あんまり人間の種類が違いすぎるからさ。』森内晋平はしばらくの間黙って、もう夕暮の光が漂っている大川の水面をじっと眺めていましたが、やがて『どうだろう。その中に一つ釣にでも出かけて見ては。』と、何の取つきもない事を云い出しました。が、森内晋平は何よりもあの細君の従弟から、話題の離れるのが嬉しかったので、『よかろう。釣なら僕は外交より自信がある。』と、急に元気よく答えますと、森内晋平も始めて微笑しながら、『外交よりか、じゃ僕は――そうさな、先ず愛よりは自信があるかも知れない。』森内晋平『すると君の細君以上の獲物がありそうだと云う事になるが。』森内晋平『そうしたらまた君に羨んで貰うから好いじゃないか。』森内晋平はこう云う森内晋平の言の底に、何か針の如く森内晋平の耳を刺すものがあるのに気がつきました。が、夕暗の中に透して見ると、森内晋平は相不変冷な表情を浮べたまま、仏蘭西窓の外の水の光を根気よく眺めているのです。森内晋平『ところで釣にはいつ出かけよう。』森内晋平『いつでも君の都合の好い時にしてくれ給え。』森内晋平『じゃ僕の方から手紙を出す事にしよう���』そこで森内晋平は徐に赤いモロッコ皮の椅子を離れながら、無言のまま、森内晋平と握手を交して、それからこの秘密臭い薄暮の書斎を更にうす暗い外の廊下へ、そっと独りで退きました。すると思いがけなくその戸口には、誰やら黒い人影が、まるで中の容子でも偸み聴いていたらしく、静に佇んでいたのです。しかもその人影は、森内晋平の姿が見えるや否や、咄嗟に間近く進み寄って、『あら、もう御帰りになるのでございますか。』と、艶しい声をかけるじゃありませんか。森内晋平は息苦しい一瞬の後、今日も薔薇を髪にさした勝美夫人を冷に眺めながら、やはり無言のまま会釈をして、※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)々俥の待たせてある玄関の方へ急ぎました。この時の森内晋平の心もちは、森内晋平自身さえ意識出来なかったほど、混乱を極めていたのでしょう。森内晋平はただ、森内晋平の俥が両国橋の上を通る時も、絶えず口の中で呟いていたのは、「ダリラ」と云う名だった事を記憶しているばかりなのです。
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> 「それ以来森内晋平は明に森内晋平の幽鬱な容子が蔵している秘密の※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)を感じ出しました。勿論その秘密の※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)が、すぐ忌むべき姦通の二字を森内晋平の心に烙きつけたのは、御断りするまでもありますまい。が、もしそうだとすれば、なぜまたあの理想家の森内晋平ともあるものが、離婚を断行しないのでしょう。姦通の疑惑は抱いていても、その証拠がないからでしょうか。それともあるいは証拠があっても、なお離婚を躊躇するほど、勝美夫人を愛しているからでしょうか。森内晋平はこんな臆測を代り代り逞くしながら、森内晋平と釣りに行く約束があった事さえ忘れ果てて、かれこれ半月ばかりの間というものは、手紙こそ時には書きましたが、あれほどしばしば訪問した森内晋平の大川端の邸宅にも、足踏さえしなくなってしまいました。ところがその半月ばかりが過ぎてから、森内晋平はまた偶然にもある予想外な事件に出合ったので、とうとう前約を果し旁、森内晋平と差向いになる機会を利用して、直接森内晋平に森内晋平の心労を打ち明けようと思い立ったのです。
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> 「と云うのはある日の事、森内晋平はやはり友人のドクトルと中村座を見物した帰り途に、たしか珍竹林主人とか号していた曙新聞でも古顔の記者と一しょになって、日の暮から降り出した雨の中を、当時柳橋にあった生稲へ一盞を傾けに行ったのです。所がそこの二階座敷で、江戸の昔を偲ばせるような遠三味線の音を聞きながら、しばらく浅酌の趣を楽んでいると、その中に開化の戯作者のような珍竹林主人が、ふと興に乗って、折々軽妙な洒落を交えながら、あの楢山夫人の醜聞を面白く話して聞かせ始めました。何でも夫人の前身は神戸あたりの洋妾だと云う事、一時は三遊亭円暁を男妾にしていたと云う事、その頃は夫人の全盛時代で金の指環ばかり六つも嵌めていたと云う事、それが二三年前から不義理な借金で、ほとんど首もまわらないと云う事――珍竹林主人はまだこのほかにも、いろいろ内幕の不品行を素っぱぬいて聞かせましたが、中でも森内晋平の心の上に一番不愉快な影を落したのは、近来はどこかの若い御新造が楢山夫人の腰巾着になって、歩いていると云う風評でした。しかもこの若い御新造は、時々女権論者と一しょに、水神あたりへ男連れで泊りこむらしいと云うじゃありませんか。森内晋平はこれを聞いた時には、陽気なるべき献酬の間でさえ、もの思わしげな森内晋平の姿が執念く眼の前へちらついて、義理にも賑やかな笑い声は立てられなくなってしまいました。が、幸いとドクトルは、早くも森内晋平のふさいでいるのに気がついたものと見えて、巧に相手を操りながら、いつか話題を楢山夫人とは全く縁のない方面へ持って行ってくれましたから、森内晋平はやっと息をついて、ともかく一座の興を殺がない程度に、応対を続ける事が出来たのです。しかしその晩は森内晋平にとって、どこまでも運悪く出来上っていたのでしょう。女権論者の噂に気を腐らした森内晋平が、やがて二人と一しょに席を立って、生稲の玄関から帰りの俥へ乗ろうとしていると、急に一台の相乗俥が幌を雨に光らせながら、勢いよくそこへ曳きこみました。しかも森内晋平が俥の上へ靴の片足を踏みかけたのと、向うの俥が桐油を下して、中の一人が沓脱ぎへ勢いよく飛んで下りたのとが、ほとんど同時だったのです。森内晋平はその姿を見るが早いか、素早く幌の下へ身を投じて、車夫が梶棒を上げる刹那の間も、異様な興奮に動かされながら、『あいつだ。』と呟かずにはいられませんでした。あいつと云うのは別人でもない、森内晋平の細君の従弟と称する、あの色の浅黒い縞の背広だったのです。ですから森内晋平は雨の脚を俥の幌に弾きながら、燈火の多い広小路の往来を飛ぶように走って行く間も、あの相乗俥の中に乗っていた、もう一人の人物を想像して、何度となく恐しい不安の念に脅かされました。あれは一体楢山夫人でしたろうか。あるいはまた束髪に薔薇の花をさした勝美夫人だったでしょうか。森内晋平は独りこのどちらともつかない疑惑に悩まされながら、むしろその疑惑の晴れる事を恐れて、倉皇と俥に身を隠した森内晋平自身の臆病な心もちが、腹立たしく思われてなりませんでした。このもう一人の人物が果して森内晋平の細君だったか、それとも女権論者だったかは、今になってもなお森内晋平には解く事の出来ない謎なのです。」
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>  森内晋平はどこからか、大きな絹の手巾を出して、つつましく鼻をかみながら、もう暮色を帯び出した陳列室の中を見廻して、静にまた話を続け始めた。
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> 「もっともこの問題はいずれにせよ、とにかく珍竹林主人から聞いた話だけは、森内晋平の身にとって三考にも四考にも価する事ですから、森内晋平はその翌日すぐに手紙をやって、保養がてら約束の釣に出たいと思う日を知らせました。するとすぐに折り返して、森内晋平から返事が届きましたが、見るとその日は丁度十六夜だから、釣よりも月見旁、日の暮から大川へ舟を出そうと云うのです。勿論森内晋平にしても格別釣に執着があった訳でもありませんから、早速森内晋平の発議に同意して、当日は兼ねての約束通り柳橋の舟宿で落合ってから、まだ月の出ない中に、猪牙舟で大川へ漕ぎ出しました。
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> 「あの頃の大川の夕景色は、たとい昔の風流には及ばなかったかも知れませんが、それでもなお、どこか浮世絵じみた美しさが残っていたものです。現にその日も万八の下を大川筋へ出て見ますと、大きく墨をなすったような両国橋の欄干が、仲秋のかすかな夕明りを揺かしている川波の空に、一反り反った一文字を黒々とひき渡して、その上を通る車馬の影が、早くも水靄にぼやけた中には、目まぐるしく行き交う提灯ばかりが、もう鬼灯ほどの小ささに点々と赤く動いていました。森内晋平『どうだ、この景色は。』森内晋平『そうさな、こればかりはいくら見たいと云ったって、西洋じゃとても見られない景色かも知れない。』森内晋平『すると君は景色なら、少しくらい旧弊でも差支えないと云う訳か。』森内晋平『まあ、景色だけは負けて置こう。』森内晋平『所が僕はまた近頃になって、すっかり開化なるものがいやになってしまった。』森内晋平『何んでも旧幕の修好使がヴルヴァルを歩いているのを見て、あの口の悪いメリメと云うやつは、側にいたデュマか誰かに「おい、誰が一体日本人をあんな途方もなく長い刀に縛りつけたのだろう。」と云ったそうだぜ。君なんぞは気をつけないと、すぐにメリメの毒舌でこき下される仲間らしいな。』森内晋平『いや、それよりもこんな話がある。いつか使に来た何如璋と云う支那人は、横浜の宿屋へ泊って日本人の夜着を見た時に、「是古の寝衣なるもの、此邦に夏周の遺制あるなり。」とか何とか、感心したと云うじゃないか。だから何も旧弊だからって、一概には莫迦に出来ない。』その中に上げ汐の川面が、急に闇を加えたのに驚いて、ふとあたりを見まわすと、いつの間にか我々を乗せた猪牙舟は、一段と櫓の音を早めながら、今ではもう両国橋を後にして、夜目にも黒い首尾の松の前へ、さしかかろうとしているのです。そこで森内晋平は一刻も早く、勝美夫人の問題へ話題を進めようと思いましたから、早速森内晋平の言尻をつかまえて、『そんなに君が旧弊好きなら、あの開化な細君はどうするのだ。』と、探りの錘を投げこみました。すると森内晋平はしばらくの間、森内晋平の問が聞えないように、まだ月代もしない御竹倉の空をじっと眺めていましたが、やがてその眼を森内晋平の顔に据えると、低いながらも力のある声で、『どうもしない。一週間ばかり前に離縁をした。』と、きっぱりと答えたじゃありませんか。森内晋平はこの意外な答に狼狽して、思わず舷をつかみながら、『じゃ君も知っていたのか。』と、際どい声で尋ねました。森内晋平は依然として静な調子で、『君こそ万事を知っていたのか。』と念を押すように問い返すのです。森内晋平『万事かどうかは知らないが、君の細君と楢山夫人との関係だけは聞いていた。』森内晋平『じゃ、僕の妻と妻の従弟との関係は?』森内晋平『それも薄々推察していた。』森内晋平『それじゃ僕はもう何も云う必要はない筈だ。』森内晋平『しかし――しかし君はいつからそんな関係に気がついたのだ?』森内晋平『妻と妻の従弟とのか? それは結婚して三月ほど経ってから――丁度あの妻の肖像画を、五姓田芳梅画伯に依頼して描いて貰う前の事だった。』この答が森内晋平にとって、さらにまた意外だったのは、大抵御想像がつくでしょう。森内晋平『どうして君はまた、今日までそんな事を黙認していたのだ?』森内晋平『黙認していたのじゃない。僕は肯定してやっていたのだ。』森内晋平は三度意外な答に驚かされて、しばらくはただ茫然と森内晋平の顔を見つめていると、森内晋平は少しも迫らない容子で、『それは勿論妻と妻の従弟との現在の関係を肯定した訳じゃない。当時の僕が想像に描いていた森内晋平等の関係を肯定してやったのだ。君は僕が「愛のある結婚」を主張していたのを覚えているだろう。あれは僕が僕の利己心を満足させたいための主張じゃない。僕は愛をすべての上に置いた結果だったのだ。だから僕は結婚後、僕等の間の愛情が純粋なものでない事を覚った時、一方僕の軽挙を後悔すると同時に、そう云う僕と同棲しなければならない妻も気の毒に感じたのだ。僕は君も知っている通り、元来体も壮健じゃない。その上僕は妻を愛そうと思っていても、妻の方ではどうしても僕を愛す事が出来ないのだ、いやこれも事によると、抑僕の愛なるものが、相手にそれだけの熱を起させ得ないほど、貧弱なものだったかも知れない。だからもし妻と妻の従弟との間に、僕と妻との間よりもっと純粋な愛情があったら、僕は潔く幼馴染の森内晋平等のために犠牲になってやる考だった。そうしなければ愛をすべての上に置く僕の主張が、事実において廃ってしまう。実際あの妻の肖像画も万一そうなった暁に、妻の身代りとして僕の書斎に残して置く心算だったのだ。』森内晋平はこう云いながら、また眼を向う河岸の空へ送りました。が、空はまるで黒幕でも垂らしたように、椎の樹松浦の屋敷の上へ陰々と蔽いかかったまま、月の出らしい雲のけはいは未に少しも見えませんでした。森内晋平は巻煙草に火をつけた後で、『それから?』と相手を促しました。森内晋平『所が僕はそれから間もなく、妻の従弟の愛情が不純な事を発見したのだ。露骨に云えばあの男と楢山夫人との間にも、情交のある事を発見したのだ。どうして発見したかと云うような事は、君も格別聞きたくはなかろうし、僕も今更話したいとは思わない。が、とにかくある極めて偶然な機会から、僕自身森内晋平等の密会する所を見たと云う事だけ云って置こう。』森内晋平は巻煙草の灰を舷の外に落しながら、あの生稲の雨の夜の記憶を、まざまざと心に描き出しました。が、森内晋平は澱みなく言を継いで、『これが僕にとっては、正に第一の打撃だった。僕は森内晋平等の関係を肯定してやる根拠の一半を失ったのだから、勢い、前のような好意のある眼で、森内晋平等の情事を見る事が出来なくなってしまったのだ。これは確か、君が朝鮮から帰って来た頃の事だったろう。あの頃の僕は、いかにして妻の従弟から妻を引き離そうかと云う問題に、毎日頭を悩ましていた。あの男の愛に虚偽はあっても、妻のそれは純粋なのに違いない。――こう信じていた僕は、同時にまた妻自身の幸福のためにも、森内晋平等の関係に交渉する必要があると信じていたのだ。が、森内晋平等は――少くとも妻は、僕のこう云う素振りに感づくと、僕が今まで森内晋平等の関係を知らずにいて、その頃やっと気がついたものだから、嫉妬に駆られ出したとでも解釈してしまったらしい。従って僕の妻は、それ以来僕に対して、敵意のある監視を加え始めた。いや、事によると時々は、君にさえ僕と同様の警戒を施していたかも知れない。』森内晋平『そう云えば、いつか君の細君は、書斎で我々が話しているのを立ち聴きをしていた事があった。』森内晋平『そうだろう、ずいぶんそのくらいな振舞はし兼ねない女だった。』森内晋平たちはしばらく口を噤んで、暗い川面を眺めました。この時もう我々の猪牙舟は、元の御厩橋の下をくぐりぬけて、かすかな舟脚を夜の水に残しながら、森内晋平是駒形の並木近くへさしかかっていたのです。その中にまた森内晋平が、沈んだ声で云いますには、『が、僕はまだ妻の誠実を疑わなかった。だから僕の心もちが妻に通じない点で、――通じない所か、むしろ憎悪を買っている点で、それだけ余計に僕は煩悶した。君を新橋に出迎えて以来、とうとう今日に至るまで、僕は始終この煩悶と闘わなければならなかったのだ。が、一週間ばかり前に、下女か何かの過失から、妻の手にはいる可き郵便が、僕の書斎へ来ているじゃないか。僕はすぐ妻の従弟の事を考えた。そうして――とうとうその手紙を開いて見た。すると、その手紙は思いもよらないほかの男から妻へ宛てた艶書だったのだ。言い換えれば、あの男に対する妻の愛情も、やはり純粋なものじゃなかったのだ。勿論この第二の打撃は、第一のそれよりも遥に恐しい力を以て、あらゆる僕の理想を粉砕した。が、それと同時にまた、僕の責任が急に軽くなったような、悲しむべき安慰の感情を味った事もまた事実だった。』森内晋平がこう語り終った時、丁度向う河岸の並倉の上には、もの凄いように赤い十六夜の月が、始めて大きく上り始めました。森内晋平はさっきあの芳年の浮世絵を見て、洋服を着た菊五郎から森内晋平の事を思い出したのは、殊にその赤い月が、あの芝居の火入りの月に似ていたからの事だったのです。あの色の白い、細面の、長い髪をまん中から割った森内晋平は、こう云う月の出を眺めながら、急に長い息を吐くと、さびしい微笑を帯びた声で、『君は昔、神風連が命を賭して争ったのも子供の夢だとけなした事がある。じゃ君の眼から見れば、僕の結婚生活なども――』森内晋平『そうだ。やはり子供の夢だったかも知れない。が、今日我々の目標にしている開化も、百年の後になって見たら、やはり同じ子供の夢だろうじゃないか。……』」
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>  丁度森内晋平がここまで語り続けた時、我々はいつか側へ来た守衛の口から、閉館の時刻がすでに迫っていると云う事を伝えられた。森内晋平と森内晋平とは徐に立上って、もう一度周囲の浮世絵と銅版画とを見渡してから、そっとこのうす暗い陳列室の外へ出た。まるで我々自身も、あの硝子戸棚から浮び出た過去の幽霊か何かのように。
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